フレッシュ

最近、ボルダリングをはじめた。前から気になってはいたが、基本的に筋肉に自信がない僕は、きっと苦手でつまらないだろうと敬遠していたのだ。

しかし、そうではないのだ。たとえば昨日などは、僕よりいくらか年上だと思われる女性の方たちがいて、こういう人もがんばってボルダリングやろうとしてるんだな、ほほえましいな、と思っていたら、僕の何級も上の何度の壁を、すいすいと登っていってしまった。よく見たら、手にテーピングをぐるぐる巻いている。ベテランさんだった。

しかし、どう見てもさすがに体力、筋力ともに俺のほうが上だと思われるのに、同等どころか、何段階も上をいかれてしまうと、おやおや、おだやかじゃないね、となる。

その横では、こんどおれより一回り、いや、二回り若いかもしれない男の子が、壁にしがみついている。腕をぷるぷるいわせてがんばっていたが、途中で断念してズリ落ちていた。

そう、筋力ではないらしいのだ。技術なのだ。

不思議でならなかった。壁をよじ登っていくとは、結局のところ、握力、腕力、背筋力、腹筋、指の力の総合力なのだと頭は考える。だが、現実は違う。

かなりご年配に見える方々も、スイスイと壁を登っていく。そんなバカな。同じ壁をおれは、5秒ととりついていられないというのに。

 

そして、こういうこともあった。

前回どうしてもクリアできなかった壁があって、その日も5−6回チャレンジして、だめだった。退屈になってきていた。つまらない、と思い始めていた。

だが、友人が同じ壁(というか課題)をスイスイと登るのをみて、あ、やっぱりできるはずなんだ、と思い、再度チャンレンジしたら、できたのだ。

できたときには、あれ?こんなに簡単だったっけ?という感じで、筋肉がぷるぷるすることもなく、スイスイーと登れた。ああ、みんなこれをやっているのか。この感じなのか、と感動する。ガッツポーズが出た。にわかに、ああ、楽しいな、これ、と一瞬で気分が反転した。

分析するとこういうことらしい。そのとき、成功したときは、足を手のすぐ下ぐらいにまでひきつけて、そのまま伸び上がるようにして一気に登って難所をクリアしていた。

だが、2度、3度、と同じ課題を登ってみるのだが、不思議なことが起きる。その難所のところにくると、頭は「無理だ」と判断している。だが、しぶしぶ足を手の近くまで高く引きつけ(そこしか足の置き場がないのだが)、つまり、すごく縮こまったカエルみたいなかっこうになって、さあ、ここからどうする、もう動けないぞ、と頭は思うのだが、しょうがないから、はるか頭上に見える(それでもそれが最寄りの)とっかかりに手を伸ばしてみると、なんと届くのだ。もちろん、「手」が届いているのではなく、体全体が伸びることで、手がとどくのだが、体全体を伸ばす時に、バランスを崩して完全に落下すると頭は思うのだが、それが、なぜか落ちないのだ。

何度か成功しても、また頭は、「無理だ」と判断しているところが面白い。4度目くらいになってやっと頭も、「無理だと一瞬おもうけど、実際はできるでしょう」、と言ってくれるようになった。

これ、30分前の俺から見たら、「おまえすげーな」という状況だ。

だから、論理的に考えれば、あの、ご年配の方々がすいすい登っている課題、おれは、その何段階もレベルが下の壁をズリ落ちているのだが、その上のレベルの壁も、いずれは、おれは、踏破する、というのが、なんと、これが、論理的な結論なのだ。

わかるだろうか。まず、ご年配の方々(この、方々というのが大事で、たったひとりなら、スーパーおじさんかもしれないからだ)よりも、俺が体力的に劣るとは考えづらい。また、彼らが、みんな元、山岳スペシャリストだった、ということでもなさそうである。べつにご年配をみなくても、基本、その場にいる人たちは、老若男女、20人ほどいたが、全員、俺より上のレベルの課題をクリアしているのを、おれは目撃している。彼らもおそらく、1〜2年前は素人だったはずだ。

で、そういうふうにみんなができていることを、俺だけができない確率はそれほど高くない。そして、今日、難関だった課題を自分がクリアしてしまったのを考慮にいれると、これと同じことが、これからも続くと考えるのが妥当だ。つまりレベルは少しずつアップしてくだろう。

ということは、その演繹としても、おれも、あの、何段階も上の、現時点の俺からみたら、「絶対にムリ」と思える壁を、数年後には踏破している可能性が高い、ということなのだ。そんなバカな。

もちろん、続けられたら、という条件はつく。飽きてやめてしまったら、そこまでだ。

 

それがとくに難しくもないストレートな論理の帰結なのだが、それでも、彼らを眺めていると、いやーー俺にはムリ、としか思えてこないところが、面白いところだ。

しかし、これは面白い。できない、絶対にムリと思うことが、実はできる。ないと思われる方法が実はある。それを体で探り、体で身につけていく。そういう行為なのだ。

だが、俺はおそらく、飽きてしまうだろう。それは性格なのだ。だが、せめて飽きるまでは、この、頭と現実のギャップを楽しもうと思った。

 

そして、カフェに入ったときのことだ。

新人研修をしているようで、10代とおぼしき女の子が、いろいろ指示を受けている。おそらく初日ぐらいで、水の出し方から指導されている。

横目で見ながら、仕事に集中してたら、ふと、横に誰かが立った。見上げると、その女の子だった。

「お水のおかわりはいかがでしょうか?」

満面の笑みで、文字通り、目がキラキラと輝いていた。(本当に輝くんだ…)

思わず、みとれて、「あ、お願いします」と妙にかしこまって言うことになる。

言い訳ではないが、俺が見とれたのは、その輝きにだ。

好みのタイプというわけではない。だが、ドキっとするほどの、輝きがあった。

それは、フレッシュネスだった。

それは、年齢ではない。若さだけが理由ではない。それは初日、もしかした初めて客に水を注ぐ、そんな瞬間にしか表れ得ない、フレッシュネスなのだと思う。

おそらく、初めてすぎて、調整ができなかったのだ。ビジネススマイルがまだわかっていないのだ。

だから、それが「本物の」笑顔だとは言わない。客用の笑顔には間違いないが、ただ、調整を間違えている。過剰に笑顔を発散してしまった、そういう笑顔なのだ。ちょうどいい頃合いがわからないから、全力で笑顔をつくるしかなかった、そしたらこうなった、という笑顔だった。

僕たちがアイドルを応援したくなるのは、こういう瞬間なのだと思った。

おそらくその子も、あっという間にちょうどいい程度の笑顔を身につけて、感じはいいけど、とくに感動はない、という笑顔を繰り出すようになるのだろう。つまり、輝きは失われる。だが、それでいい、毎日、毎回、輝いていたら、へとへとになってしまうだろう。それは極度の緊張の裏返しであるからだ。

 

昨日、ボルダリングでぼくは、フレッシュな感動を覚えた。30分前まで無理だと思っていた課題を突破することができた。この喜びのことだ。それは課題を突破しただけでなく、無理だと思っていたものを突破したというポイントが加算された喜びだ。それを忘れないためにこのブログを書いた。来週はまだ飽きてないことを祈りながら。。

 

 追伸:

そのカフェでは、2時間ほど仕事をしていたのだが、その間に、その輝きの子が、最初に水を注いでくれた20分後くらいに再度水を注ぎにきた。水は半分ほど残っていて、おれは喉がかわいていなかったが、もちろん、「あ、おねがいします」した。もちろんだ。そして、その20分後にまた輝きがやってきて、水は7割ほど残っていたが、おれが「あ、おねがいします」したのは言うまでもない。