本当にささいなこと

今回のイタリア旅行で、一番記憶に残っていることは?と聞かれたら、本当にささいなことを話すことになるだろう。

幸いなことに、ずばりそう聞いてきた人はまだいない。

本当にささいな、でも、何度も思い出されるシーン。それは夜のローマだった。

あれはどこだろう。何時ごろだったのだろう。観光客で遅くまで賑わうローマの中心街を歩いていたとき。きっと目的地があったはずだ。トレビの泉だったかもしれない。あそこには4度もいったのだ。

本当にささいなこと。僕は歩いていて、いや、立ち止まっていたのかもしれない。子どもたちのグループがやってきて、すれ違うところだった。子どもたちは5〜8歳くらいで、3、4人くらいで、騒がしく叫んだりしながら、割と足早に僕の脇を通り過ぎようとしていた。

ひとりの子どもがなんとなくこっちを見ている気配がした。何気なく目をやると、グループの中からひとりの女の子がこっちを見上げていた。なんだろう、なぜ僕を見ているんだろう、とぼんやり考えながら見ていると、ちょうどすれ違うときに、小さな声で「チャオ」と言った。それは、本当に小さな声で、おそらく僕にしか聞こえていなかった。ほかのことに気を取られていたグループのほかの子どもたちにも聞こえなかっただろう。

僕もとっさに、同じくらいの声で、あるいは声は出なかったかもしれないが、「チャオ」と返した。

たったそれだけの出来事だ。

これが、今回の5週間に及ぶイタリア滞在で、最も鮮明に記憶に残ったワンシーンなのだ。

 

そのことの意味を滞在中も考え、今も考えている。

そのとき、子どもにチャオと声をかけられたとき、僕は、意表を突かれハッとし、そして嬉しい気持ちに満たされた。

神様のいたずらのような、神が落とした金貨が地面に落ちる瞬間のような、そんな一刹那だたた。

この瞬間を僕は忘れることはないだろうと思う。

 

このような瞬間があること、そうだこれが旅というものだったんだ、と思ったのかもしれない。思い出したような感覚。

どうだろう。どうでもいいことだ。本当に。

どうせなら僕だって、すてきなイタリア女性に出会って素敵な時間を過ごしました、なんて話ができればいいと思う。だが、そういうことは、僕の場合、往々にして、起きない。ニアミスみたいなことはあった気がするが、実際は起きたことはない。

ささいな記憶。後日談がないからこそいいのかもしれない。その後、偶然その子と再会して、仲良くなって、家に連れていかれたら、そこで妙齢の女性が現れて、、、なんて話が続かないからこそ良い。そう思いませんか?

あまりにささいすぎて、誰にも話す気にならない、だからこそ良い、思いませんか?