本当の宝

8歳の姪っ子が箱根駅伝が好き過ぎることはもう書いただろうか。

本当に変わっていると思う。月間駅伝、みたいな本を神棚のごとく祀っているときく。

母親も父親もとくに駅伝ファンではない。姪が勝手に好きになったのだ。テレビで見かけたのだろう。

いまでは、駅伝に出場する全選手の大学と名前と走行区間を暗記してしまうくらいに好きになってしまった。

このことが、本当にうれしい。

姪がいつか若者になり、自分がわからないと言い始めたら、言ってあげることができる。君は、子どものころ、駅伝が本当に本当に大好きだったんだよ。

そうすれば、そこに戻ることができる。自分が心から好きなことがわかっていて、ただ熱狂していたたときに。

もし大人になった姪が、あの頃のことは覚えてないといっても、こう言ってやろう、君が忘れても僕は覚えている。君はそれはそれは駅伝のことを楽しそうにおしゃべりしていたんだよ、と。

 

いま、非対称性の解消というプロジェクトに取り組んでいる。

消費と制作のバランスを少し戻そう、という。

たとえば、最近、服をつくりたいと思っている。前から不思議だった。毎日着るもの、こだわるものなのに、自分の手で作り出せないことが。

どうして、こんなにも時間を使って、何件ものお店を回って、それでもこれだという服が見つけられない。

もちろん、服を作るのは大変だ。布からつくるとしても、シャツ1枚つくることだって、無理そうに思える。ユニクロなら数千円で買えるクオリティのやつだって、自分のこの手から作り出されるとは想像できない。

これが料理なら、少し事情は異なる。僕は自炊する。レストランのようの美味しいものはできないかもしれないが、自分で「十分おいしい」と思えるものを素材からつくることができる。作れるメニューは限られるが、日常生活を回せないほど少ないわけじゃない。

靴は、絶望的だが、デザインも気に入って、足型にも合う靴を探し回って疲れ切ったことがある僕は、どうして、こうなっているのだろう、と思っていた。今は、なんとか足に合う、デザインも好き系な靴を見つけたが、それが廃盤になったり、好みが変わったらまたプレッシャーのなかで靴屋をめぐることになるのだろう。

そして、なによりも不思議なのは、エンターテイメントの世界だ。芸術や文学に少しよるかもしれないが、僕は明らかに、精神の安定や、苦しい時を乗り越えるために、本や映画の助けを必要とした。おそらくもっと若い頃は音楽にも助けられたはずだ。高校時代、わけもわからず、パンクのテープを繰り返しきいていたりした。それは、耳から暴力的に怒鳴り込んでくるあの刺激を必要としていたときがある、とうことなのだと思う。自分の胸のなかにあるものをなんとか解放していたのかもしれない。

だが、自分手ではまったく作り出せないのは、これはなぜだ。

こんなに自分にとって重要なものが、自分の手で少しも作り出せない。クオリティの問題ではない。ぜんぜん作り出せないのだ。これはいったいどういうことなのだろう。(練習すれば演奏はできると思う。でも曲を作ることは想像すら遠い)

この非対称性はいったいなんなのだろう、と思うのだ。

いつかくるだろうか、僕が、自作の服を身にまとって街を闊歩し、いたく満足している姿をみるときが。

いつかくるだろうか、自分がつくった曲に癒やされ、自分が書いた小説に励まされるときが(これはプロの小説家でもないことなののかも・・)

でも、わかっている。きっと飽きてしまう。飽き性なのだ。

でも、少しやってみることはできるだろう。現に僕はいま、自分で編んだレッグウォーマーを履いている。できたてなのに穴だらけの。

 

子どものころ、家に「はぎれ」と書けれた箱があって、中に布の切れ端がたくさん入っていた。ズボンが破れると、母がはぎれの中から布を選んで修繕してくれた。いやではなかった。アップリケも楽しかった。あの文化は、もう母のもとにもない。はぎれはどこへいったのだろう。

 

いつもどおりに混乱している。部屋にものが溢れ、断捨離本を買って、さてどうしようかと途方にくれている僕は、服が捨てられずに困っている僕が、「はぎれ」の箱を懐かしく回想し、憧れのような感情を抱いている。