超進化論

NHKで超進化論という番組を見た。

樹木が、地下で菌糸のネットワークで繋がっていて、栄養を分け与えあっている、ことがわかってきた、というような内容だった。

以前、同じことを本で読んだ記憶があるが、改めて衝撃的な発見だと思った。

樹木が根っこ同士でつながって、栄養を与え合う、というのなら、まだわかる気がする。しかし、根と根が離れていても、それを菌類が媒介して、栄養を伝達するというのだ。しかも、栄養を与える樹木は、同じ種とはかぎらないということなのだ。杉がヒノキに栄養を与えることもあるということだ。

まるで樹木に意思があるみたいだし、とても他人(樹木)に優しく互助的だ。驚く。

まるで、アナーキズムを地でいくような感じだ。森は中央政府なしで互助的に支え合って成り立っているのだとしたら。日光や栄養をめぐって過酷な生存競争が繰り広げられているわけではないのだとしたら。

これは兆候ではないだろうか。次世代が始まっているのだ。

次世代が始まる時、我々は、次世代の礎となるマインドセットを、自然の中に科学的に事実として「発見」するのだと思う。

前世代のマインドセットが「競争」だとしたら、次世代は「助け合い」あるいは、もっと違う概念、まだ言葉がつくられていないような概念なのかもしれない。

 

 

友人の子どもと遊んでいるとき、こどもは本当にごっこあそびが好きなのだなあと思っていた。おんぶしてほしいというからおんぶすると、「バブバブ」と言い始めた。どう声をかけても「バブ」としか返事をしない。赤ちゃんになってしまったのだ。赤ちゃんごっこだ。

それでしばらくバブバブ言っていると思ったら、こんどは高いところに登って踊りだして、写真を撮れ、と言う。手で写真を撮る真似をすると、スマホを持ってこいと言う。そこはごっこじゃないのかい!と思いながら、スマホを撮ってくると、とびはなて踊りながら歌って、写真を撮れと命じるのだった。これはアイドルごっこかなにかだろう。

常に、なにかのごっこをしている。そして、それに周囲を巻き込もうとする。

もしかしたら、これは、ごっこじゃないのかもしれない、という考えが浮かんだのだった。

というよりも、僕たち大人が考えるように、ごっこと現実が別れていないのかもしれない。というよりも、僕たち大人も常にごっこ遊びをしていると言っても、あながちはずれていないのかもしれない。

僕たちはごっこ遊びをして、他人を巻き込んで、おなじごっこをしてもらおうとする。しようとする。共同幻想という言葉がかつて流行ったそうだが、ごっこ遊びは蜜の味がするのだ。甘い、甘い、心地よい時間。守られた、自分たちだけの、親密で濃密な、生の体験なのだ。

僕たちはきっと生きるということの意味の壮大さにやりきれなくなって、ごっこをするのだ。ごっこで、いっときのサンクチュアリを作り出して。

追い出されない楽園。追い出される前に次の楽園をこしらえて。

ごっこはひとりでもできる。子どもはよく一人遊びをする。僕もした。

だが、誰かを巻き込んだごっこ遊びは、一人遊びとは違った喜びがあるのは、誰しもが知るところだろう。

ごっこ遊び」を調べてみたら、ごっこ遊びは子どもが社会性を身につけるために大切な遊びです、と書いてあった。

それはそうだろう。だが、それだけではないはずだ。

ごっこ遊びは、それそのものが目的なのだ。その副産物として、社会性が身につくこともあるのだ。

ごっこ遊びは、目の前にいるほかの生命と、つながるという体験を求めるということなのだ。きっと。

 

僕はいまボイストレーニングに通っている。まだ延べで半年くらいだが、少しだけ進歩が見えてきて、今日などは、自分では決してありえないと思われた、ひとりカラオケを敢行してしまった。

僕は歌がうまくない。小学生くらいからそう意識していた。まず大きな声が出ない。高い声も低い声も出ない。

だからカラオケはめったに行かない。みんなで騒ぎにいくときだけしぶしぶいくだ。

でもあるときふと、僕の声って、これで終わりなのかな?この先はないのかな?と疑問が湧いた。思えば、声の出し方って教えてもらった記憶ない。音楽の授業でも習わなかった。なんなら、自分が地声だと思っている声って本当に地声なのだろうか?という疑問がわいた。あるときに、声の出し方をひとつ覚えて、ずっとそれをやってきただけなんじゃないだろうか。

もちろん、歌がうまくなりたい。そういうことなのだが、歌が思うように歌えたら、それって「自由」だなあ!って思うんです。

で、いまのところまだ飽きずに通ってるわけであるが、プロになるわけじゃなし、ライブの予定があるわけじゃなし、声の仕事をしているわけでもない僕に、ボイトレの講師は、真剣に教えてくれるんです。そのことが、不思議であり、なにやら助かっているんです。

意味がないんです。社会的には。言ってしまえば。僕が歌を少しばかり歌えるようになったって。お金の無駄だし、時間の無駄なんです。社会に価値をもたらさないのです。僕が少し声が出せるようになっても。

そんなことに、大の大人ふたりが、月に2回、1時間、わりと真面目に時間を使っているわけです。

これは何なのだろうと我ながら思うんです。なんでこんなことやっているんだろう。

人に聞かれれば、歌手になりたくて、とか、言っていますが、それは、自分でもなぜやっているかわからないからです。

おそらく、歌がうまくなった未来に意味があるんじゃなくて、今、声を出せるようになろうとあくせくしているこの時間に意味があるんです。そこにしか意味がないのかもしれない。もっと言えば、社会的に価値がないからこそ意味があるとさえ言っていいきがするのです。

得意なことを伸ばせば、仕事になるかもしれない。お金が稼げるかもしれない。人から褒められるかもしれない。人気ものになれるかもしれない。そしてなにより社会に価値をもたらすことができる。

それはそれでいいし、そうやって得意なことを持ち寄ってこの社会は成り立っていて、お互いに助け合って生きているわけです。そうだからこそ、今の暮らしができている。素晴らしいことだと思う。

得意じゃないこと、むしろ苦手なことを、自己満足のためだけに、取り組む。そして、それを誰かが支えたり、励ましたり、見守ったりする。

そのことの意味は意外と小さくないのではないか、というのが、今ボクが考えていることです。