ウクライナの気持ち

ロシアのウクライナ侵攻の考察をもう少ししたい。

さっき、そういうことだよね、と腑に落ちることがあった。

 

侵攻当初、こういう議論があった。

ウクライナの軍事力ではロシアの侵攻を止められない。抵抗すれば犠牲が増えるだけだ。本当に国民の命を守りたいなら、ゼレンスキーは涙をのんで白旗を掲げるべきだ、という意見が見られた。

一方、生まれ育った故郷を占領されて黙っていられるわけがない、それに、ロシアに降伏して介入を許せば、ゼレンスキー以下、抵抗勢力は殺されるか投獄され、ロシアの属国に成り下がってしまう。ロシアによる拷問など、ひどい目にあう人も大勢出るだろう、という意見もあった。

僕はといえば、そりゃあ戦うでしょ、あんなことされたら、と思う反面、命を守る、ということを考えたら、まずは降伏して、市民がミサイルで殺されるのを止めるべきなのかもしれない、という考えもちらちらと浮かんだりしていた。

だが、ひとつ抜けている要素があることに気づいた。前回も少し触れたが、国連や国際社会の挙動だ。

そう、ウクライナ国民は、後日、国際社会が、ロシアに奪われた土地を奪い返してくれたり、投獄された政治家や軍人を解放してくれるとは、思っていないのだ。そんなことはとてもしてくれないだろう。きっと、ロシアを非難したり国連で決議したり経済制裁はするかもしれないが、ウクライナを占領したロシア軍を追い返しては絶対にしてくれない、そう思っているのだと思う。

それは、クリミア半島を見ればわかることだ。国際社会はロシアの横暴を非難した。だが、なんの実力行使もしてくれなかった。これが事実だ。

そして、いちど奪われた土地を奪い返すのは、奪われないように抵抗するのに比べて、はるかに大変だということは想像できる。いつかは返ってくる?10年後?20年後?本当にそうか?70年たっても北方領土は返ってこない。

 

残念ながら、それが国際社会の現状なのだ。その点においては、70年前の戦争のときと何ら変わっていないようなのだ。

 

でも、現状を見ると、不思議になる。

NATO各国はウクライナに戦車やミサイルをあげている。軍隊こそ派遣しないが兵器は与えている。これは戦争協力といって間違いないだろう。僕などの単純な頭で考えると、これはもはや、ロシア 対 NATOウクライナ連合軍の戦い、と言っていいんじゃないのか。ロシアがそう考えないことが不思議だ。実際はそう考えているのかもしれないが、ロシアが、ウクライナに兵器を渡しているのは敵対行為である、としてNATOとの戦争状態を宣言する、というふうにはなっていない。もちろん、なったら大変なことなのだが。

そのあたり、あうんの呼吸で、そこまでエスカレートするにはお互いやめましょうや、とロシアとNATOが握っているような感じすらする。

そんなどっちつかずのねめっとした状態のなかで、ウクライナ市民や両国兵士はばりばりと死んでいる。そのことがどうしても不思議なのだ。腑に落ちないのだ。

これは子どものときに感じた違和感と直結している。

僕はこどものころ、捕虜を虐待してはいけないと定める、ジュネーブ条約の意味がぜんぜんわからなかった。だって、戦争って殺し合いだろう?さっきまで自分を殺そうとしていた奴が武器を捨てて白旗をあげたら、もう殺しちゃいけないなんてことはある? ラッキーということで殺すか、二度と武器を持てなくなるくらい痛めつけてやりたくなるはずだ。白旗をあげたらもうゲスト(捕虜)です、って、それスポーツかよ!

と10歳くらいの僕はしきりに首をひねっていた。戦争というもののそのリアリティを感じることができなかった。

もっと、戦争にもルールがある、戦争はただの殺し合いじゃない、ということは、歴史を見れば理解できるのだけれど、最前線では殺し合っているのは事実なのだ。人を殺すのにもルールがある。そんなことを僕は教えられた覚えがない。ただ、殺してはいけない、だ。

殺してはいけないが、やむをえず殺すことになったら、殺し方にきをつけろよ、ということさえ社会から教えられた覚えはない。そんな議論も聞いたことがない。

ただ、戦争となったとたんに、なにか別次元になる。殺しが若干スポーツ化するのだ。

そのことが、いいことなのか、悪いことなのか。

戦争が本当にノールールなら、もっとひどいことが起きてきたはずだ。シベリアから日本兵が帰ってくることもなかっただろう。

でも、殺すことがなぜかスポーツ化してしまう戦争は、やっぱりぞっとさせるものがある。なんでそうなる? 未だによくわからない。また後日、考察をすすめることにしたい。