そんなことより今日君と
昔の恋人からもらった手紙が、実家にあった。
そこには、大事なこと、聞きたいことを書いたから、最後まで読んでほしいと書いてあった。
それは「愛」についてだった。
あなたは、友達のAくんやBくんからの愛はわかるが、私からの愛はわからないと言うけど、それがどうしても理解できない、と綴られていた。
覚えている。そんなことを彼女に言っていた。
君が僕のことを好きなのはわかっている。だけど、それは愛ではない、と、僕はかたくなに主張し、そのことを彼女がわからないことに苛立っていた。
そしてなにより、そんなことを言ってしまう自分に苛立っていたように思う。
あの頃、(たぶん今も相当に)、僕は「愛」という言葉にこだわっていた。
恋人が僕を愛しているわけがないのだ、とどうしても主張したかった。わからせたかった。もちろん僕も彼女を愛してやしない。
そのことを、大好きな彼女に認めさせたかった。
意味がわからない。それは、心理学的には、愛着障害、ということになるのだろうが、甘えでもあったように思う。
恋人に、自分が愛を巡る苦しい闘争を闘っている、ということをわかってほしかったのかもしれない。
だが結果は、恋人を無意味に苦しめ、混乱させていた。
そりゃそうだろう。彼氏が自分をとても好きだということは伝わってくるのに、これは愛ではない、勘違いするなよ、と言い続けられるのだから。
それでいて、明らかに僕は、彼女に「愛される」ことを求めた。
言葉で「愛している」と言われることは全力で拒否をしたが、行為としては、全力で愛されることを求めた。
すねているとしかいいようがない。すねて苦しい自分を、ぶつけて甘えていたのだということが、今はわかる。
そして、昔の日記を見返してみると、そこにも「愛」について僕は書いている。
また別の恋人と別れたとき、「わたしはあなたを愛していたわけではなかった」と告げられた、と書かれていた。
そのことにとても傷ついたことを覚えている。
矛盾してるじゃないか。「あなたを愛してる」は受け取れないくせに、「あなたを愛していなかった」には傷つくなんて、。
とにかくいずれにせよ、「愛」ということに、むやみにこだわり、こじらせ、怒り、傷つけ、失望し続けてきたことがうかがえた。
面白いことに気づく。
僕は、友人からの愛はわかると主張している。だが、ふだん、友人との関係において、「愛」というワードで考えることはない。頭に浮かぶ言葉は、仲が良い、気が合う、好き、ということでしかない。友人Aを愛している、愛されている、などと考えることなどない。
そこに愛があるかなんて気にしていない関係。であるからこそ、そこに「愛」があることを受け入れることができる。そんなふうになっているように思えた。
友人に対しては、どんな親友だとしても、俺を愛してくれているか、と心の中でさえ問うことはない。また、自分はそいつを愛しているか、と考えることもない。
だけど、人から問われれば、おれはその親友を愛していると言える、と答えるだろう。ふだんそんなふうに考えないが、あらためて問うなら、俺はそいつを愛している、と。
それが、恋人になると、とたんに言えなくなる。恋人だって、気が合う、好き、一緒にいると楽しい、大切に思う、大切に思われていると感じる、等々、「愛」という言葉をとりたてて使わずとも、その特別な関係を言い表すことは可能であるはずなのに。
俺は「愛」という言葉にこだわることで、なににこだわっていたのだろうか。
それが愛であっても、なくても、いい。そんなことは別にどうでもいい、ただ、一緒にいると楽しい、うれしい、ほっとする、というような関係こそが、僕の求めている関係なのではないか。
求めているというか、そうだからこそ、その人と付き合っている、つながっている、想っている、という事実があるだけなのかもしれない。
およそ友人関係は、そのように、流れるように、営まれているのだ。
愛、その甘美なるものに、僕は魅せられ、求め、反発し、拒絶し、こだわり、絶望し、でも諦められず、夢み、渇望し、憧憬し、傷つき、傷つけてきた。
だが、愛とは結局、本当のところ、何なのだろうか? それは絵に描いた餅、思考の産物だったのではないか?
愛なんてどっちでもいい、それをすねずに言えるときがきたら、それは愛のなかにいる、ということなのかもしれない。
そんなことより、今日君と、おいしいごはんをたべたいんだ。それからおいしいケーキを買いに行って、夕暮れどきを散歩して、眠くなるまで他愛のない話をだらだらして、寝て、起きて、おはよう、と言いあい、朝ご飯をつくって、たべる。そして、、
長い闘争の終わり
新幹線の中で「あの本」を読んでいたら、涙があふれてきた。
ヘッドフォンで、シャーリーンのI'VE NEVER BEEN TO ME を聴いていたからかもしれない。
本当は、新幹線に乗る前の地下鉄から、地下鉄に乗る前のバスから、何かに気づきはじめている気配があった。
それは、長い学生運動が終わる予感のようなものだった。
僕たちは闘争を続けてきた。それを勝ち取るために。僕たちは要求した。それをよこせと。なぜそれを我々に渡さない、我々が欲しているものは、ほんのささやかな、あと一歩の、もうすぐ届きそうな、もう手渡してもらればいいだけの、ありふれた、ありあまっているはずの、当然もらってしかるべきところの、なんでもない、どこにでもある、子どもなら誰でももらう権利があるはずの、あの、あれだった。
それは、毅然として戦えば、声を挙げて退かなければ、勝ち取れるもののように思えた。
だから、僕たちは、そこかしこで、ことあるごとにゲリラ戦を繰り広げて、こんどこそは、ささやかな勝利を手にしたい、胸に抱きたいと、奮闘してきたのだ。
それはほんとうに、すぐそこにあるように思えた。いまにも、その手から、そののどから、こぼれおちそうに思えた。
僕たちはただ、それを手のひらでしっかりと受け止め、そうだ、これこれ、これが欲しかったんだ、と、ほほえみ、勝ち誇り、うっとりしながら、この身に染み込ませばいいだけなのだと思っていた。
そんな闘争に終わるときが来たのかもしれない。バスに揺られながら、シャーリーンを聴きながら、ぼんやりと、新しい理解を受け入れようとしていた。
ほしかったものは、なかった。
僕たちが、どうしても欲しかったものは、はじめから、なかった。
どこにもないものを、あるはずだと、持っているはずだと、隠しているはずだと、いじわるでくれないだけど、ごねにごねれば、真摯に訴えれば、握った手を開いて、そんなに欲しいならあげるわよ、と言って、もらうことができるのだと思っていた。
教授たちは、いじわるをしているわけではなかった。もっているものは惜しげもなく、与えてくれていた。ただ、もっていないものを、要求されて、困惑していたのだ。
持っているものは、与えてくれていたのだ。それは本当に惜しげもなく。
ただ、持っていないものは、与えようがない、それだけのことだったのだ。
たったそれだけのことがわかるために、数十年におよぶ長い長い闘争を要した。
たった、それだけのことが、わかった。
ハノイのホテルのルーフトップバーで考える
いま、ハノイの4つ星ホテル「ラ・シンフォニア・デル・レイ・ホテル・アンド・スパ」の、ルーフトップバーでこれを書いています。
トリップアドバイザーで世界16位、アジア7位に選ばれたというホテル。記念に一泊だけしてみようと思い立ち、予約をとった次第です。
ホスピタリティがすごい、とのレビューを読んでいたので、最高のホテルのサービスをいちどくらいは体験してみようと、意気込んで来ました。
評判どおりの上品な接客です。自分まで上品な客になった気分です。もうちょっと良い服を来てくればよかったと思いました。
部屋もおしゃれで上質。ただ、部屋が思ったより狭かったです。一日部屋で過ごしてやろうと思っていたので、ちょっとその気分にはならないかな、というところ。
なるほどー。自分はホテルにずっといたくなるような居住性を求めてもいるんだな、と新たな発見です。
仕事を少ししたかったのでパソコンをもって、ルーフトップバーへ。ここが最高の眺め。湖を見渡せる場所にあり、普段はうるさいだけの大量のバイクや車のヘッドライトさえも、きれいなイルミネーションのようです。
なるほど、これはすごいわ。スタッフもとてもていねいで、やさしい。
ただ、僕はやっぱり途方にくれています。前回の続きのようですが、やっぱり、ここは、ひとりで泊まるホテルじゃない。無駄にロマンティックです。ぐるっと見渡しても、ひとり客はいません。この眺めを誰かと共有したかった、そんな感傷に浸っています。
今回、ハノイで1つのミッションがありました。
2年前くらいにお世話になっていたオンライン英会話の先生が、南アフリカの人で、ハノイに住んでいたんです。また、ほかの先生もハノイ在住の人がいたりして、欧米人のノマドたちに、いまハノイに住むが人気なのかな、と思っていました。
で、その実態を調査にきた、という気分もあったのです。
この1週間、あのおしゃれな先生はどこに住んでいたんだろう、自分ならどこに住むだろう、とハノイのさまざまな場所を練り歩いていました。
どこかに、外国人が集まって、意識の高いベトナム人と一緒に、おしゃれで快適なエリアを形づくっているんじゃないか、という期待があったのです。
欧米人に人気というストリートにも、日本人が多く住むという地域にも行ってみましたが、僕の期待する雰囲気ではありませんでした。うまく探せなかっただけなのかもしれません。
少しその片鱗を感じる地域はあったのですが、僕が思うより規模がずっと小さそうでした。
でも、今回の旅で、ベトナムのことが好きになりました。友人のつてて、現地のやさしいベトナム人と触れ合ったからかもしれません。何度も利用したバイクタクシーのドライバーたちが思ったより礼儀正しくやさしかったからかもしれません。
なにより食べ物が美味しいからだと思いますが!
ハノイで考える
2024年は正月明けからハノイに来ている。友人の結婚パーティーに呼ばれたのだ。
実は、このイベントに誘われたとき、緊張が走っていた。船で一泊?おれは耐えられるのだろうか? 船酔いが心配だ。おまけに、ハノイからハロン湾までバスで3時間だという。そのコンボに俺は耐えられるだろうか?
これが、友人の結婚パーティーではなく、ただのクルーズのお誘いだったら、たぶん断っていただろう。車3時間→船で一泊→車3時間なんて、ふだんの僕には「ありえない」行程だ。わざわざ苦しい思いをしに行く必要ないし、車酔い、船酔いで周囲jに迷惑をかけるのも忍びない。
でも、一生におそらく一度の友人の結婚パティー、招待する友人2人のうちの1人に選ばれて、断るわけにはいくわけがない。ぜひとも参加したい。俺は腹をくくった。なんとしても乗り切ろう。
結果、あろうことは、車酔いもせず、船酔いもせず、世界遺産に感動しまくって、華やかなカップルに胸を打たれて祝福し、夢心地な時間を過ごすことができたのだ。カヤックまでやってしまった。
2022年は別の友人の結婚式でイタリアに行った。そして今年はベトナムだ。異国の地に住むことになった友人を拝啓訪問できるうえに、親友の結婚も祝えて、おまけに旅行も楽しめる。こんなに素敵なコンボはない。
一個前に書いたブログは、一年くらいまえで、お金と「自由」について書いていた。
今回の旅行中もお金と自由についてずっと考えていた。
僕のライフテーマは「自由」なんだと思っている。結局、30代中盤以降の僕の動きは、ひたすらに自由度を高める、逆にいえば、自分を縛るものを極力遠ざけていく、というものだったように思う。
フリーランスになったのもそうだし、家具などを揃える必要がなく、いつでも移動できるゲストハウスに住み続けているのもそうだろう。数年おきに恋人ができるが、けっきょく結婚にも同棲にも至らずにきたのも、そういうことの気がしている。
自分を拘束しそうなものを、とにかく避けてきたように思う。
それは、意識的、自覚的にやってるというよりも、拒否反応が出て、都度逃げ出してきた結果というほうが近い。
だから、異国の地で、パートナーとふたりきりで、新生活を始めようとしている友人に、すごいよ、と思う。彼がベトナムに来て今後少なくとも6年住む理由は、ただ、妻がそこにいるからだ。そんな選択を僕はできる自信がない。その人と一緒にいるために思いもしなかった国に住む、そんなにまで誰かを離れがたいと思い続けたことが、僕にはない気がする。
自由には2階層ある。
1つは、我慢をしないということだ。したくないことはしない、したいことをする、そういう自由。つまり行動の自由だ。
そしてその下層には、うそをつかない、がある。自分の感じていることをごまかさない、ということだ。本当は嫌なのに嫌じゃないふりをしたり、本当はしたいことがあるのにそんな気持ちはないかのようにふたをする。そういうことをしない、という自由。自分の心を自由にさせるということだ。感覚を開いて、感じたままに、自由に、自分に何を感じることも許す、そういう自由。
今回の旅の後半は、ひとり旅となっている。現地に友人夫妻がいるので、毎日のように夕食を一緒にしているので、本当のひとりではぜんぜんないんだけど、なんだかさみしさを感じる。たったいまも。
旅の価値観が変わったことに気づくのだ。僕は一人旅が好きだった。というか、海外なんてひとりでいくものだ、と決めてかかっていた。せっかく海外にいくのに、誰かといくなんて、貴重な体験が台無しになると思っていた。
まず、誰かと行動していたら、出会いがなくなると思っていた。せっかく海外で、運命の出会い、ロマンチックな出会いが待っているかもしれないのに、誰かといたら、旅で出会った人と一緒に旅を続けた、みたいなメモリアルな体験の機会が奪われる。
実際、ロマンチックでこそはないが、若い頃のバックパッカー旅行では、旅先で出会った一人旅の若者と、道中をともにしたり、一緒の部屋にとまったり、日本では出会わないような種類の人と出会ってともに時間を過ごしたり、した。そういうことこそが、旅の醍醐味なのだと思っていた。日本から友人と旅行に出れば、そういう体験はできない。
すでに知っている友人と、いつもの会話をしながら、ありきたりな観光名所をぶらつき、ありきたいな名物料理をたべて、旅行のガイドブックに載ってるみたいな旅をする。そんなのどこが楽しいの?時間とお金の無駄じゃない?そんな旅なら日本でやればいい、と思っていた。
本当に、若者でなくなっても、つい最近までそう思っていた。だから、海外に行こうと思うときは、最初からひとりで行く前提で考えてきた。
だが、なんだか、今回の旅も、前回のイタリア旅行もそうなのだが、すでに知っている友人と、ありきたりな観光地を巡って、ありきたりな名物料理をたべて、道中でこぜりあいをしたり、ぼったくりにあった友人を笑ったり、どたばたと旅行することが、なんだか楽しいのだ。
今までは、単独で、ガイドブックには載ってない体験をする、のが旅だと思っていた。たとえば、ひとりでスラム街へ潜入する、とか、もっとマイルドなら、暮らすように旅をするとか。現地に住んでいる人かのように街をあるき、現地の人がいくカフェでコーヒーを飲み、人通りを眺める、みたいなのが好みの旅だと思っていたのだが、今、そういうことをしても、俺、やってるぜ!みたいな感動がいまいち来ないのだ。ああ、この感じね、と、「知ってる感」が先立ってしまう。逆に想定内の体験をしているというか。
一人旅が終わるのかもしれない。それは本当にさみしいことだ。今、このフレーズを書いて、うっすら涙がこみあげてきた。
長い間、自分のパートナーは自分だった。それが心強かったし、幸せだった。自分は自分を一番信頼しているからだ。自分となら、どこへでも行ける。自分となら、何が起きても工夫して乗り切っていける。自分となら大丈夫。それが根底にあるささやかな自信だった。
いや待てよ、でも、誰でも基本はそうじゃないのか?という思いも今湧いてきた。パートナーがいる人も、家族がいる人も、誰でも基本単位はひとり。自分と相談しながら行きていくという基本は変わらない。
ただ、少し何かが変わったのだろう。
ハノイで食べる料理は本当に素晴らしく、毎日感激している。どこで何をたべても、たいてい、予想したよりおいしいのだ。そこらへんの適当な屋台でフォーを食べても、あれ、やさしい味、おいしい!となる。ベトナム料理がこんなにおいしいものだらけなんて知らなかった。とくに魚がおいしいことを。揚げた魚がとにかくおいしい。
あと、マッサージの質が高くて日本よりずっと安い。
旅の後半は連日雨だった。予定していたショートトリップも行けなかったので、残り数日、食とマッサージを堪能して帰ろうと思っている。だけど、まだなにかあるんじゃないか、と狙っている。まだなにかおもしろい出会いがあるのではないかと。。
2つの自由
今朝、予定より早く目がさめてしまったベッドで、「自由」って2つあるよなあ、ということをぼんやりと考えていた。
たとえば、僕はお金にコンプレックスがあるようで、お金を十分に稼いでいない、みたいな気持ちに恒常的になっている。それは、具体的に生活が苦しい、とか、今あれをしたいけどそのお金がない、ということではなく、同級生たちはきっとこれくらい稼いでるなあ、僕の年齢ならこれくらい稼いでいて当たり前なんだよなあ、とか、将来家が欲しくなったときに貯金がないよなあ、ローンが通らないよなあ、みたいなぼんやりとした不安だ。
だが、常に頭の片隅にあってうざがらせをしてくる。
そのくせに、お金を稼ぐことに熱をあげている人たちを見て、どこか小馬鹿にするような意識もあるから始末に負えない。あーあ、お金なんかに血相変えて、それが人生でいいのかね。
でも達観できているわけでもなく、結局はお金に支配され、振り回されている感がまったく否めない人生なのだ。
そんなふうに、いつもお金の不安や恨み節をうだうだ言っているものだから、人からは、「いっそのこと十分だと思えるまでお金を稼ぐことに集中してみたらどうだ」と言われたことがある。
その能力があったらもうやってるよね、と思ったものの、でも、もしかして「お金儲けに集中するなんてダサい」という色眼鏡をはずして、持てる全能力をそこに注げば、あるいは、今自分がこれだけ稼げれば十分なのにな、と思える額を稼げないこともないのかもしれない、とは思ったりしていた。
もちろん、全能力を注げれば、だ。それもまた、ほとんど不可能なのはわかっている。
だが、こうしたお金をめぐる問題を「自由」という観点から考えてみると、2つの道筋があることがわかる。
1つは、今言ったように、お金持ちになることで、お金から自由になる、という道筋だ。たとえば、異論はあるかもしれないが、年収が2千マン(いや1千マンで本当はいい)あって、それが基本的にずっと続く見込みがある場合、僕がいま感じているお金の不安からは脱することができる気がする。最初は不安でも、それが5年もつづいて、貯金も数千万円あって、収入もそれだけあって、いうことになれば、当面、お金がなくてどうしてもしたいこと、してあげたいことができんなくて困る、ということはなさそうである。もちろん、今の生活水準、欲求に照らせば、である。生活水準を上げてしまえば、そのかぎりでないことは言うまでもない。
そして、もう1つの道筋は、「収入が(人より、周囲より)少なくても充実して生きられるように生きていくと決める」という自由への模索だ。もちろん、それは、いっときの決断や覚悟だけでなく、具体的なノウハウの集積や、精神的タフネスが求められるだろう。たとえば、年収100万でも自分(と家族)の幸福は少しも妥協せず求めていく、実現することができる、というように生きるということだ。そうしている、できている人たちが日本にいないとは思わない。ただ、まれではあるかもしれない。
違う例題を見てみよう。たとえば、学歴コンプレックスというものがある。自分は高校を出ていない、ましてや大卒ではない。だからどこか負い目を感じて生きているという人がいるだろう。
そういう人からそれが悩みだと打ち明けられたら、僕なら、「学歴なんて形式だけで実態はないよ、それより好きなことをやり続けて生活できるようになるべく、具体的なスキルや経験を積むことに集中したほうが遥かに有益だよ。本当にそう思うよ」というだろう。
だが、それは一見正論ではなるが、本当に実践的なアドバイスなのかというと、そうとも言い切れないところがある。
本人は、大卒という立場になったことがない。だから、それがあれば自分はもっと自信が持てるのにと思っている。他人がいくら、そうじゃない、と言ったところで、本人が体験したことでないと、身にしみてはわからないだろうし、アドバイスをしている僕自身が、本人と同じ立場になったことはないので、本当の彼の気持ちはわからないのだ。
長くなったが、この学歴コンプレックスという悩みから「自由」になる道筋は2つあることがわかるだろう。
1つは、「学歴なんて意味無し、そんなのと関係ないところで人生を築いてく」と決めて生きていく道筋。
もう1つは、「これがあればと思える学歴を実際につけてしまう」という道筋。その結果がどうなろうと、少なくとも、いま現時点の「学歴がないから。。」という悩みは消えるか、形をかえることになるだろう。
今回はこのあたりにしておこう。「自由」にもいろいろな道筋の自由がありそうだ、という話でした。
ウクライナの気持ち
ロシアのウクライナ侵攻の考察をもう少ししたい。
さっき、そういうことだよね、と腑に落ちることがあった。
侵攻当初、こういう議論があった。
ウクライナの軍事力ではロシアの侵攻を止められない。抵抗すれば犠牲が増えるだけだ。本当に国民の命を守りたいなら、ゼレンスキーは涙をのんで白旗を掲げるべきだ、という意見が見られた。
一方、生まれ育った故郷を占領されて黙っていられるわけがない、それに、ロシアに降伏して介入を許せば、ゼレンスキー以下、抵抗勢力は殺されるか投獄され、ロシアの属国に成り下がってしまう。ロシアによる拷問など、ひどい目にあう人も大勢出るだろう、という意見もあった。
僕はといえば、そりゃあ戦うでしょ、あんなことされたら、と思う反面、命を守る、ということを考えたら、まずは降伏して、市民がミサイルで殺されるのを止めるべきなのかもしれない、という考えもちらちらと浮かんだりしていた。
だが、ひとつ抜けている要素があることに気づいた。前回も少し触れたが、国連や国際社会の挙動だ。
そう、ウクライナ国民は、後日、国際社会が、ロシアに奪われた土地を奪い返してくれたり、投獄された政治家や軍人を解放してくれるとは、思っていないのだ。そんなことはとてもしてくれないだろう。きっと、ロシアを非難したり国連で決議したり経済制裁はするかもしれないが、ウクライナを占領したロシア軍を追い返しては絶対にしてくれない、そう思っているのだと思う。
それは、クリミア半島を見ればわかることだ。国際社会はロシアの横暴を非難した。だが、なんの実力行使もしてくれなかった。これが事実だ。
そして、いちど奪われた土地を奪い返すのは、奪われないように抵抗するのに比べて、はるかに大変だということは想像できる。いつかは返ってくる?10年後?20年後?本当にそうか?70年たっても北方領土は返ってこない。
残念ながら、それが国際社会の現状なのだ。その点においては、70年前の戦争のときと何ら変わっていないようなのだ。
でも、現状を見ると、不思議になる。
NATO各国はウクライナに戦車やミサイルをあげている。軍隊こそ派遣しないが兵器は与えている。これは戦争協力といって間違いないだろう。僕などの単純な頭で考えると、これはもはや、ロシア 対 NATOーウクライナ連合軍の戦い、と言っていいんじゃないのか。ロシアがそう考えないことが不思議だ。実際はそう考えているのかもしれないが、ロシアが、ウクライナに兵器を渡しているのは敵対行為である、としてNATOとの戦争状態を宣言する、というふうにはなっていない。もちろん、なったら大変なことなのだが。
そのあたり、あうんの呼吸で、そこまでエスカレートするにはお互いやめましょうや、とロシアとNATOが握っているような感じすらする。
そんなどっちつかずのねめっとした状態のなかで、ウクライナ市民や両国兵士はばりばりと死んでいる。そのことがどうしても不思議なのだ。腑に落ちないのだ。
これは子どものときに感じた違和感と直結している。
僕はこどものころ、捕虜を虐待してはいけないと定める、ジュネーブ条約の意味がぜんぜんわからなかった。だって、戦争って殺し合いだろう?さっきまで自分を殺そうとしていた奴が武器を捨てて白旗をあげたら、もう殺しちゃいけないなんてことはある? ラッキーということで殺すか、二度と武器を持てなくなるくらい痛めつけてやりたくなるはずだ。白旗をあげたらもうゲスト(捕虜)です、って、それスポーツかよ!
と10歳くらいの僕はしきりに首をひねっていた。戦争というもののそのリアリティを感じることができなかった。
もっと、戦争にもルールがある、戦争はただの殺し合いじゃない、ということは、歴史を見れば理解できるのだけれど、最前線では殺し合っているのは事実なのだ。人を殺すのにもルールがある。そんなことを僕は教えられた覚えがない。ただ、殺してはいけない、だ。
殺してはいけないが、やむをえず殺すことになったら、殺し方にきをつけろよ、ということさえ社会から教えられた覚えはない。そんな議論も聞いたことがない。
ただ、戦争となったとたんに、なにか別次元になる。殺しが若干スポーツ化するのだ。
そのことが、いいことなのか、悪いことなのか。
戦争が本当にノールールなら、もっとひどいことが起きてきたはずだ。シベリアから日本兵が帰ってくることもなかっただろう。
でも、殺すことがなぜかスポーツ化してしまう戦争は、やっぱりぞっとさせるものがある。なんでそうなる? 未だによくわからない。また後日、考察をすすめることにしたい。
戦争は遠くで始まる
ロシアのウクライナ侵攻から、一年近くが経とうとしている。ずっと不思議な気持ちがあった。現実のこととは思えないような。YOUTUBEでは、ウクライナに在住するYOUTUBERが、砲撃された建物を見せてくれたり、現地のリアルタイムの様子を教えてくれる。いっぽう、ロシアでは、ロシア人YOUTUBERが、ロシア国民に街頭インタビューをして、この戦争をどう思っているのかを聞き出してくれる。
どちらも、普通に生活している人々だ。だが、その祖国同士は今、戦争をしていて、前線では兵士たちが殺し合っている。いや、厳密には、殺し合っているわけではないのだ。殺しは結果であって、ただ、ロシアはウクライナを占領したい、具体的に言えば、戦車や戦闘車両で入っていって、ゼレンスキーや要人を逮捕したい。ロシア兵士を多数送り込んで、制圧下で選挙を行い、新ロシア派の傀儡政権を樹立したい、ということなのだろう。決して、ウクライナ人を殺したいわけでも、ウクライナ兵を殺したいわけでもないはずだ。
ただ、その目的を手段を選ばず遂行する結果、ミサイルがウクライナの街に降り注ぎ、民間人が多数死ぬ。結果的には殺すのだ。
ウクライナだって、ロシア兵を殺したいわけではないはずだ。ただ、出ていってほしい。押し返したい。だが、ロシア兵は出ていかない。戦車で砲撃しながら迫ってくる。やり返すしか無い、結果、ロシア兵がばたばたと砲弾に倒れていく。死んでいく。
そして、ロシアの国民は、いらだっている。なぜなら、なぜ、自分の国がウクライナで、民間人をあんなに殺しているのか、本当のところ、よくわからないからだ。
インタビューのマイクを向ければ、いろいろと言う。これはアメリカとの代理戦争だ。ウクライナのナチスを打倒して住民を解放ためだ、いろいろと言う。だが、みんな一様に、いらだっているように見える。それは、きっと、本当のところは、よくわからない、と思っているからだと思う。だが、よくわからないのに母国が他国民を殺している。それは受け入れがたいこと。なので、わかりやすい理由に、それが政府のプロパガンダとしても、飛びつくのだと思う。
そして、内心はこう思っているのではないか。俺たちは普通に暮らしているだけだ。ごく平凡に慎ましく日常生活を苦労しながら営んできた。それだけだ。悪いことはしていないし、悪い企みもないし、強欲でもない。だが、なぜか、うちの国が戦争をはじめてしまった。たしかに選挙ではプーチンに投票した。頼れるリーダーで実績も確かだからだ。ロシアはよくなった。だから悪い判断だとは思わない。だが、なぜ、息子が動員されて、ウクライナで殺すか、殺されるかしようとしているのか、それは、本当はよくわからない。
どうしてこうなった? 多くの人が内心、そう叫んでいるのではないだろうか。
そして、それが、近現代の戦争であり、その恐ろしさなのだと思う。
遠くで何か始まった。え?うちの国が戦争始めたの?で、どうなる?え?動員?え?おれ戦争行くの?
みたいな感じで事が進んでいっているようなのだ。SNSが発達した現代、戦争当時国でもインターネットが遮断されない現代、その様子がリアルタイムで伝わってくる(伝わってきているような気がする)。
そして、はじめった戦争は、勝手に終わらすことはできない。相手がいるからだ。今、ロシアが、なんか勘違いしてたかもしれないし、ちょっと疲れたから、もう戦争やめるね、と言ったところで、ウクライナは納得しないだろう。奪ったものを返せ、壊したものを賠償せよ、殺された人々の代償を払え、と迫るはずだ。このままでは済まさないぞ。始めるのは自分の都合で始められるが、終わるときは勝手に自分だけ終わりたくてもそうはいかない。
代償を払いたくないから、戦争を終われない、とくに、戦争を始めた為政者は投獄、悪くすれば殺されてしまうかもしれない。それがわかっていてやめられるわけはない。結果、どちらかに壊滅的な被害が出るところまで進んでいく。そのダイナミズムがいままさに進行しているように見える。
そして国民は、どうしてこうなった、と口をあんぐりさせながら、戦時という状況がじわじわと身に差し迫ってくるのを待っているしかできることがない。
何が悪かったのか。どこから間違えたのか、考えてもわからないから、間違っていないことにするしかない。そうやって戦時下の異様な集団心理が作り上げられていく。戦争に勝ちさえすれば、その問いもうやむやになる。突き詰められることはない。そのこともきっとどこかでわかっている。だから、とにかく勝てば、勝ちさえすれば、ということで、若者は戦争へいけ!俺たちだって行くときはいく!となるのかもしれない。
そして、もはやあまり議論されなくなっているように見えるが、こうしたことが起きたときになんとかするために作られたはずの、国連が、まったく機能しなかった、という重い事実。どうせそうなるとわかってたよ、と僕だって言いたくなるが、実際そうなってしまったのはさすがにショックだった。
ある国が、別の国に、突如軍事侵攻を始め、された国が抵抗して軍事衝突が起きたら、まずは国連が軍事介入してでも、侵攻を止める。そして平和的に仲裁する、そういうことなのだと思っていた。だが、そうはならなかった。NATOは武器をウクライナにあげている。日本もロシアに経済制裁をした。だが、軍事介入をしなかった。
そして、ロシアが言う、NATOが原因をつくった、というのも、ゼロではないだろう。ロシア国民から見て、だってそうだろう、と言いたくなる要素もゼロじゃないはずだ。長いスパンで見ればそういうふうにも見えるのだろう。
うーん、まだ僕自身が混乱しているようだ。このテーマはまた取り上げてみよう。きっと戦争はまだ続く。
断捨離成功とFisrt Love
年末に断捨離に成功してしまった。
今住んでいる部屋に引っ越してから5年間以上、いちども、満足いくまで物を捨てられたことはなかったのだが、たった、今、ほぼ満足いくまで物を整理できてしまった。
自分でも驚いている。何があった?
部屋の物を減らすのは僕の悲願みたいなもので、人にも相談したし、本も何冊も読んだし、コンマリのNetflixの番組も見て、物捨て熱を盛り上げるのだが、必ず、高価だった服を捨てる、まだ使える文房具を捨てる、本を減らす、人からもらったものを捨てる、などにいちいち引っかかって、エネルギーを消耗し、ああ、俺には無理なんだ、おれはあいつらとはちがうんだ、ミニマリストとかじゃないし、、と挫折を繰り返してきた。
最近などは、使えるものを大切にするって逆にいいことなんじゃない? 買っては捨てる、なんて資本主義消費社会にやられちゃってるんだよ、俺はもったいないの精神をまだ持ってるんだから、と自己正当化をしてさえいた。
でも、やっぱり物が床まで侵食する部屋を見渡すたびに、うんざりしていた。
それが、なぜか手を付けてから4、5日で、ほぼ、満足いくまで片付いてしまったのだ。
きっかけは、おそらく、加湿器だった。
3年前に別れた彼女からもらった加湿器を捨てたところからだった気がする。
当初は捨てる気はなかったのだ。ただ、今年の冬はやけに乾燥するし、加湿器を使おうと、押し入れから出してスイッチを入れたら、なにやらモーター音のような異音がする。うるさくて使えない。もう捨てるしかないなあ、ということで捨てようと思った。そのとき、どこかほっとしたのを覚えている。
そのあたりから、気持ちに加速がついて、本を半分以下に減らし、服も半分になり、まだ使えるというだけで何年も手にとっていなかったものを捨て始めたら、あれよという間に、部屋が片付いてしまったのだった。
もっとも、まだ捨てられるもの、捨てるべきものは残っている。だが、気持ちは「成功した」という実感がじわじわと湧いている。まさかできるとは思っていなかった、くらいに。
そして、今日、手紙の整理をしようと思った。大半は、姪っ子からの手紙だった。
それを読み返していたら、切なくなってきてしまった。「だいすき」から始まる、こんな愛らしい手紙を、何通ももらっていた。そのことを軽く考えていた。いま後悔している。あの頃は、子どもってかわいいなあ、くらいに思っていた。あまり返事も書かなかった。また手紙送ってきたよ〜、かわいいなあ。くらいに流していた。でも姪ももう11歳。そんな手紙をくれる年頃ではいつのまにかなくなっていた。
コロナで3年も会えなかった。そのことが今とても悔しい。二度と返ってこない時間なのだ。幼いがゆえに、近親者である「おじさん」の僕は、特別に好きの対象だったはずだ。そのことの恩恵を存分に受けてきた。本当に幸せだった。うれしかった。何もしていないのに、おじさんだというだけで、こんなに愛してくれる。子どもは天使、ほんととうによく言ったものだ。
だが、それも永遠に続くものではない。当然だ。それでいい。それが成長というものだ。友達ができ、好きな子ができ、そうやって思春期へ向かっていく。そうでなくては困る。いつまでも、おじさんが大好きでは困るのだ。でも、少しさみしい。
姪からの手紙は捨てられなかった。捨てる必要もないと思う。かさばるものでもない。
ただ、同時に、姪に好かれている、好かれていた、ということをいきがいのようにしてはいけないのだ、と改めて思っている。
Netflixで「First Love 初恋」というドラマを見た。すばらしい作品だった。とくに、第8話のラストシーンは、何度再生したかわからない。
記憶喪失になるお話だ。そういうドラマは割とよくある。でも現実では僕の周囲で聞いたことはない。まあドラマの中のお話でしょ、というふうに今までは思っていた。ドラマを盛り上げる設定が必要だもんね、と。
でも、あ、そうじゃないかも、と今日は思い直していた。
ドラマのような記憶喪失、高校時代の3年間の記憶をまるごと失くしてしまう、などのことは、今後の人生で、自分やパートナーが体験することは、まずない。
だけど、大切な人との大切な日々を、すっかり忘れて生きてきてしまった、ということは、あるのではないか。そう思った。あるいは、忘れてはいないにせよ、そのときは(ときには、その後でも)それをそれほど大切な時間だとは思っていなかった、などということは、いくらでもあるのではないだろうか。
先ほど述べたように、姪が小学1年生のときからの手紙をずっと読み返していて、ああ、もっとちゃんとお返事を書いてあげればよかった、と後悔している。
きっと、るんるんでお手紙を書いてくれて、ママにポストに入れてくれるように頼んだら、返事がくるのを今か今かと待っていたのではなかろうか。そして、ちっともこないから落胆しつつも、また手紙をせっせと書いてくれていたのだ。
子どもがそうした美しい日々を1日、1日、と生きていて、その美しさになかに「おじさん」である僕も決して小さくない領域を占めていたということを、僕はうっかり軽視してしまっていたのだ。そのことをもっと感謝し、喜び、噛み締めながらともに時を過ごすべきだった。
そして、そのことをどんなに後悔したとしても、もう決してやり直しはできないのだ。
いまさら追いかけてももう遅いのだ。
ドラマFirst Loveにこんなシーンがある。也英は、離れて暮らしている息子の綴と、会える日を心待ちにしている。そして、今日も待ちに待ったその日が来た。レストランで一緒に食事をしていると、綴がそわそわしている。何?と聞くと、どうやら気になっている女の子が今、どこかでライブパフォーマンスをしているらしい。つまり、その子のところへ行きたいのだ。久しぶりにお母さんとの時間を過ごすよりも。
いつのまにか綴は14歳になっていた。恋をする男の子になっていた。
也英は、離婚してから、10年ほど、おそらく恋をしてこなかったのだろう。なによりも息子を愛し、息子にときどき会える、成長を見守れる、それだけで満たされて生きてこれた、あるいは、満たされることにしようと決めて生きてきたのだ。それで十分だ、それ以上に何を望む、と。
息子も自分に会うことを心待ちにしていてくれる。会えば飛びついてきて、帰りには離れたくないと泣いたはずだ。そんな息子をなだめながら、またすぐ会えるからね、と自分にも言い聞かせてきた。
だが、どうだ。目の前のすっかり成長した息子は、目の前の母よりも、Instagaramの中の女の子に夢中だ。いつしか、もう離れたくないと泣くこともなくなっていた。
恋愛、結婚、パートナーという愛を断念し、息子を愛し生きようとした。親子の愛を生きる糧にした。できた。でもそれも、永遠でないことを悟るときが来た。もちろん、愛は消えることはない。だが、それだけで身をいっぱいにすることは、はばかられる、そういう愛に形をかえようとしていた。
僕は恋愛が下手のようだ。友達にそう言われたこともある。恋愛というか、恋人、パートナーとともに歩んでいく、ということに失敗し続けきた。いや、踏み出すことさえできてこなかったのかもしれない。苦手なんだ、向いていないんだ、それだけが愛じゃない、相思相愛の姪もいる。姪を一生かわいがっていけばいい、姪じゃなくても、子どもには好かれるほうだ。友だちの子どもも僕が大好きだ。そうやって誰かの子どもを愛して生きていけばいい、みたいに少し思ったりもした。でも、それはそれで素晴らしい愛なのだが、その愛は、パートナーとの愛とは違うもので、代替できないものなのだ。そのことを、今、改めて思っている。
かつての恋人からもらった手紙をようやく捨てる。めめしく写真に撮ったりしてみた。なぜそんなことをしているんだろう、と自分でも思いながら。もう未練はないはずで、納得して別れたはずなのに。
First Loveの第8話のラストシーンを見返しながら、ああ、そうだ、と思った。
うまくはいかなかったし、ヨリをもどしてもうまくいくとは思わないし、付きあっている時間のすべてが幸せだったわけではないのだが、大切な時間であったことには、間違いがないことを、きちんと受け入れなくちゃいけない。思いもよらぬギフトであったことを。自分にとってとても大きなことであったことを。
つまり、僕は、3年間、それなりに、あの恋を引きずっていたということになるのだろうか。
人生は短すぎる。不当だとさえ思う。まだ知りたいことがたくさんあるのに。まだわかりたいことがたくさんあるのに。まだ体験したいことがたくさんあるのだ。
超進化論
NHKで超進化論という番組を見た。
樹木が、地下で菌糸のネットワークで繋がっていて、栄養を分け与えあっている、ことがわかってきた、というような内容だった。
以前、同じことを本で読んだ記憶があるが、改めて衝撃的な発見だと思った。
樹木が根っこ同士でつながって、栄養を与え合う、というのなら、まだわかる気がする。しかし、根と根が離れていても、それを菌類が媒介して、栄養を伝達するというのだ。しかも、栄養を与える樹木は、同じ種とはかぎらないということなのだ。杉がヒノキに栄養を与えることもあるということだ。
まるで樹木に意思があるみたいだし、とても他人(樹木)に優しく互助的だ。驚く。
まるで、アナーキズムを地でいくような感じだ。森は中央政府なしで互助的に支え合って成り立っているのだとしたら。日光や栄養をめぐって過酷な生存競争が繰り広げられているわけではないのだとしたら。
これは兆候ではないだろうか。次世代が始まっているのだ。
次世代が始まる時、我々は、次世代の礎となるマインドセットを、自然の中に科学的に事実として「発見」するのだと思う。
前世代のマインドセットが「競争」だとしたら、次世代は「助け合い」あるいは、もっと違う概念、まだ言葉がつくられていないような概念なのかもしれない。
友人の子どもと遊んでいるとき、こどもは本当にごっこあそびが好きなのだなあと思っていた。おんぶしてほしいというからおんぶすると、「バブバブ」と言い始めた。どう声をかけても「バブ」としか返事をしない。赤ちゃんになってしまったのだ。赤ちゃんごっこだ。
それでしばらくバブバブ言っていると思ったら、こんどは高いところに登って踊りだして、写真を撮れ、と言う。手で写真を撮る真似をすると、スマホを持ってこいと言う。そこはごっこじゃないのかい!と思いながら、スマホを撮ってくると、とびはなて踊りながら歌って、写真を撮れと命じるのだった。これはアイドルごっこかなにかだろう。
常に、なにかのごっこをしている。そして、それに周囲を巻き込もうとする。
もしかしたら、これは、ごっこじゃないのかもしれない、という考えが浮かんだのだった。
というよりも、僕たち大人が考えるように、ごっこと現実が別れていないのかもしれない。というよりも、僕たち大人も常にごっこ遊びをしていると言っても、あながちはずれていないのかもしれない。
僕たちはごっこ遊びをして、他人を巻き込んで、おなじごっこをしてもらおうとする。しようとする。共同幻想という言葉がかつて流行ったそうだが、ごっこ遊びは蜜の味がするのだ。甘い、甘い、心地よい時間。守られた、自分たちだけの、親密で濃密な、生の体験なのだ。
僕たちはきっと生きるということの意味の壮大さにやりきれなくなって、ごっこをするのだ。ごっこで、いっときのサンクチュアリを作り出して。
追い出されない楽園。追い出される前に次の楽園をこしらえて。
ごっこはひとりでもできる。子どもはよく一人遊びをする。僕もした。
だが、誰かを巻き込んだごっこ遊びは、一人遊びとは違った喜びがあるのは、誰しもが知るところだろう。
「ごっこ遊び」を調べてみたら、ごっこ遊びは子どもが社会性を身につけるために大切な遊びです、と書いてあった。
それはそうだろう。だが、それだけではないはずだ。
ごっこ遊びは、それそのものが目的なのだ。その副産物として、社会性が身につくこともあるのだ。
ごっこ遊びは、目の前にいるほかの生命と、つながるという体験を求めるということなのだ。きっと。
僕はいまボイストレーニングに通っている。まだ延べで半年くらいだが、少しだけ進歩が見えてきて、今日などは、自分では決してありえないと思われた、ひとりカラオケを敢行してしまった。
僕は歌がうまくない。小学生くらいからそう意識していた。まず大きな声が出ない。高い声も低い声も出ない。
だからカラオケはめったに行かない。みんなで騒ぎにいくときだけしぶしぶいくだ。
でもあるときふと、僕の声って、これで終わりなのかな?この先はないのかな?と疑問が湧いた。思えば、声の出し方って教えてもらった記憶ない。音楽の授業でも習わなかった。なんなら、自分が地声だと思っている声って本当に地声なのだろうか?という疑問がわいた。あるときに、声の出し方をひとつ覚えて、ずっとそれをやってきただけなんじゃないだろうか。
もちろん、歌がうまくなりたい。そういうことなのだが、歌が思うように歌えたら、それって「自由」だなあ!って思うんです。
で、いまのところまだ飽きずに通ってるわけであるが、プロになるわけじゃなし、ライブの予定があるわけじゃなし、声の仕事をしているわけでもない僕に、ボイトレの講師は、真剣に教えてくれるんです。そのことが、不思議であり、なにやら助かっているんです。
意味がないんです。社会的には。言ってしまえば。僕が歌を少しばかり歌えるようになったって。お金の無駄だし、時間の無駄なんです。社会に価値をもたらさないのです。僕が少し声が出せるようになっても。
そんなことに、大の大人ふたりが、月に2回、1時間、わりと真面目に時間を使っているわけです。
これは何なのだろうと我ながら思うんです。なんでこんなことやっているんだろう。
人に聞かれれば、歌手になりたくて、とか、言っていますが、それは、自分でもなぜやっているかわからないからです。
おそらく、歌がうまくなった未来に意味があるんじゃなくて、今、声を出せるようになろうとあくせくしているこの時間に意味があるんです。そこにしか意味がないのかもしれない。もっと言えば、社会的に価値がないからこそ意味があるとさえ言っていいきがするのです。
得意なことを伸ばせば、仕事になるかもしれない。お金が稼げるかもしれない。人から褒められるかもしれない。人気ものになれるかもしれない。そしてなにより社会に価値をもたらすことができる。
それはそれでいいし、そうやって得意なことを持ち寄ってこの社会は成り立っていて、お互いに助け合って生きているわけです。そうだからこそ、今の暮らしができている。素晴らしいことだと思う。
得意じゃないこと、むしろ苦手なことを、自己満足のためだけに、取り組む。そして、それを誰かが支えたり、励ましたり、見守ったりする。
そのことの意味は意外と小さくないのではないか、というのが、今ボクが考えていることです。
Macbook Air 決まりました
Macbook Airの色が決まらないという話をしました。
あれからずいぶん苦しみました。ぜんぜん決められなくて。
でも、買いました。ついに。色はシルバーです!
どうせ新しくするならスペースグレーを試したい、という気持ちにぐらぐら揺れながら、結局、僕はオーセンティックなシルバーが好きなんだ、と言い聞かせて、買いました。
届いて、箱を開けたとき、やっぱりいい色!と思いました。でも、開いてみると、どこかシャンパンゴールドっぽい光り方をしていて、それは、部屋のライトを反射しているからなんだけど、なんだか思ったのと違う、と少し落ち込みました。
でも、いま、すっかり慣れて、シルバーかっけえ!ってあらためてなっています。いつものことだけど、ほんとバカバカしい3ヶ月を過ごしたものです。
でも、僕がこうしたどうでもいい話を長々と書くのはそこになにか意味があると思っているからです。その意味は、まだ言葉にできていません。
このMacbookAirの色が決められない騒動の間に、YOUTUBEで同志を探してさまよいました。ついには日本のYOUTUBERでは足りなくなって英語圏のYOUTUBERを漁っていました。そして、ここが米国のいいところなんだよな、ということありました。
それは、視聴者たちがりちぎにコメントを残していくところです。この英語YOUTUBEの世界で、僕はたくさんの同志に会うことができたのです。
英語話者のたくさんの同志たちが、「シルバーかスペースグレーか、というささいな選択に私もめちゃくちゃ悩んでます!」という人も何人もいたし、「迷ったらシルバーにしておけば後悔しない」という格言みたいなフレーズがあることも知ったし、僕と同じく、ずっとシルバーを使ってきたから今回はスペースグレーにするんだ、という人もいました。
僕は、こうしたコメントを読みながら、僕はひとりじゃない。恥ずかしくなんかない、みんな迷うんだ!迷う人はいっぱいいるんだ!と少しばかり自己肯定をすることができたのです。
僕だけじゃない。おかしいことじゃない。
あとで後悔なんかしないことがわかっているのに、毎回決断できなくなってしまう。この病。僕だけじゃない。同志たちよ、大いに迷い、大いに語り、大いに愛でよう!
決められない macbook air編
ここ13日間ほど、ふさぎこんでいた。気持ちが落ち込み、自己否定の感情が吹き荒れ、人と会うのが嫌で、朝起きられなくなり、深夜にYOUTUBEをずっと見ていたりした。
隣人なども異変に気づき、どうしたの?と聞いてきたりした。夏バテで。。などと言葉を濁したが、それだけではない。きっかけはある。
僕がこのような抑うつ状態に突入した原因は、Macbook Airのカラーが決められなかったことだ。
わからない?
説明しよう。僕は2013年に買ったMacbook Airをずっと大切に使ってきた。もう9年!になるのだ。すごいだろう。そして、さすがにいろいろと限界が見えてきたので今年こそ買い換えることにしたのだ。
そして、ちょうどこの夏に新しいMacbook Airがリリースされた。これでいい、これを買おうと思ったのだ。
そして、いままでシルバーを使っていたから、今度はスペースグレーにしようかな、と思い、でも、ミッドナイトとか新色も出たので一応実機を見てから、とヨドバシカメラに出かけていったのがかれこれ一ヶ月ほど前のことだ。
それで何が起きたか。あれ?スペースグレーよりシルバーのほうがきれいじゃない?と思ってしまったのだ。
それから苦悩が始まった。照明の関係もあるかもだから一応、ほかの店舗でも見てみようと、別のショップへ。すると、こんどは、あれあれ、スペースグレーのほうがかっこよくないか?と見えてきてしまったのだ。でもシルバーもやはりいい。
もうおわかりだろう。決められなくなってしまったのだ。
このときすでに脇の下がしっとりと湿っていることに僕は気づいていた。
また例のヤツが始まった。。
ただ、シルバーなのか、スペースグレーなのか、それだけなのだ。
そう、昨年暮れにiPhoneを買ったときも、ほぼ同じことが起きていた。色が決められなくなったのだ。
ただ、頭の中で、たったこれだけのこと、どっちでもいいじゃん、と思ってはいるのだ。
iPhoneのときもそうだっただろう? あのとき、結局使い慣れてしまえばどうということはないし、迷っていたことさえも忘れると学んだのではなかったか?
でも、だめなのだ。脳がショートし、正常ではなくなっていくのを感じながら、僕は、決められないの魔法にかけられてしまったのだった。
あれから一ヶ月。3軒のAppleストアと、4軒の電器店を回った後、僕はプチうつ状態に突入したのだった。
そして、結局、まだ決められていないのだ。
僕のような人はほかにいるのだろうか? Macbook Airの色が決められなくなって、2週間ほど部屋に引きこもってしまうような人は。
これは、きっと、Macbook Airの色を決める、という問題を超えた、何かにちがいないのだ。
僕の根幹がゆさぶられている。
僕の心のなかでは、
どうしよ、Macbook Airの色が決められない→やっぱり俺はだめなヤツだ。もう何事もうまくいかないだろう。お先真っ暗だ。
ぐらいの回線ショートが起きているようなのだ。
この考察は続けなければならないが、今日はこれくらいにしよう。
ただ、同志がいるのかを今、とても知りたい。
本当にささいなこと
今回のイタリア旅行で、一番記憶に残っていることは?と聞かれたら、本当にささいなことを話すことになるだろう。
幸いなことに、ずばりそう聞いてきた人はまだいない。
本当にささいな、でも、何度も思い出されるシーン。それは夜のローマだった。
あれはどこだろう。何時ごろだったのだろう。観光客で遅くまで賑わうローマの中心街を歩いていたとき。きっと目的地があったはずだ。トレビの泉だったかもしれない。あそこには4度もいったのだ。
本当にささいなこと。僕は歩いていて、いや、立ち止まっていたのかもしれない。子どもたちのグループがやってきて、すれ違うところだった。子どもたちは5〜8歳くらいで、3、4人くらいで、騒がしく叫んだりしながら、割と足早に僕の脇を通り過ぎようとしていた。
ひとりの子どもがなんとなくこっちを見ている気配がした。何気なく目をやると、グループの中からひとりの女の子がこっちを見上げていた。なんだろう、なぜ僕を見ているんだろう、とぼんやり考えながら見ていると、ちょうどすれ違うときに、小さな声で「チャオ」と言った。それは、本当に小さな声で、おそらく僕にしか聞こえていなかった。ほかのことに気を取られていたグループのほかの子どもたちにも聞こえなかっただろう。
僕もとっさに、同じくらいの声で、あるいは声は出なかったかもしれないが、「チャオ」と返した。
たったそれだけの出来事だ。
これが、今回の5週間に及ぶイタリア滞在で、最も鮮明に記憶に残ったワンシーンなのだ。
そのことの意味を滞在中も考え、今も考えている。
そのとき、子どもにチャオと声をかけられたとき、僕は、意表を突かれハッとし、そして嬉しい気持ちに満たされた。
神様のいたずらのような、神が落とした金貨が地面に落ちる瞬間のような、そんな一刹那だたた。
この瞬間を僕は忘れることはないだろうと思う。
このような瞬間があること、そうだこれが旅というものだったんだ、と思ったのかもしれない。思い出したような感覚。
どうだろう。どうでもいいことだ。本当に。
どうせなら僕だって、すてきなイタリア女性に出会って素敵な時間を過ごしました、なんて話ができればいいと思う。だが、そういうことは、僕の場合、往々にして、起きない。ニアミスみたいなことはあった気がするが、実際は起きたことはない。
ささいな記憶。後日談がないからこそいいのかもしれない。その後、偶然その子と再会して、仲良くなって、家に連れていかれたら、そこで妙齢の女性が現れて、、、なんて話が続かないからこそ良い。そう思いませんか?
あまりにささいすぎて、誰にも話す気にならない、だからこそ良い、思いませんか?
できないことができるときとは
不思議なことに、今、部屋がずいぶん片付いている。
数ヶ月前までは、絶望的な気持ちで部屋を見渡したものだった。
とくに押入れの中を。服が散乱している。片付ける宛先がない下着たち。傾いたダンボールが棚の役割を担おうとしているが、役不足であることは明らかだった。
ずっと着ていない服が捨てられなかった。もう着ないことはわかっているのだが、買ったときの思い出、まだ着れるものを捨てる罪悪感、などなどで、捨てようとすると体が動かなくなるのだった。
そしてなによりも、部屋がすっきりと片付いているというイメージが持てなかった。どうしていいかわからないかった。自分には無理なのだ。ここまでなのだ。別に汚部屋というほどもないし、男のだらしない部屋といえば、それまでのことだ、と思い込もうとしてきたが、心のどこかでひどくがっかりしていた。
しかし、今、驚く。押し入れがスッキリしていることに。なぜこうなった。簡単なことで、服が半分以下になった。つまりは捨てることができた。すくたんじゃなくてリサイクルに持っていったのだが。それがよかったのかもしれない。リサイクルなら、ワンチャン、有効活用されるのなら、2回しか着ていない服だって、処分できた。
片付けられる人からすると、何をおおげさな、と思うかもしれないが、本当に何年も、俺には無理だこれ以上は。。と思い込んできたラインを超えることができた。
それが不思議なのだ。
今思えば、別になんでもない、どうしてできなかったのか不思議なくらいなのだが。
だが、こういうことは、人生でいくらもある気がする。だから書いている。
とくに心境の変化があったのか、そういう気もしない。気持ちの調子がいいのか、そうでもない。どちらかというと、落ち込み気味な気がしている。だが、そうした自己評価とは裏腹に、夜も以前よりずっと眠れるようになったし、体もすごく動かしている。月に2−3回は塩水に浸かっている。片道2時間かけて。。
でも、気持ちが晴れているわけではない。後味の悪い夢をよく見るし、ああ、もうこんなところまで来てしまって、やり直すことができない、とはかなむ気持ちに、1時間に2回ぐらいなるのが毎日なのだが。
アレン・ギンズバーグの教え子だったというアメリカ人と知り合いになった。名前はずっと前から知っていた。ビートジェネレーションのグルだ。だが、その作品に触れたことはなかった。詩集「吠える」を買った。
すごいな、とは思ったがとくに心が動くわけではなかった。でも、その当時に、この詩を手にとって、電撃に打たれたかった。そんな気はした。
狂った社会の中で、自分だけが正気で、狂った言葉で狂った社会を告発したかった。そんな24歳であったなら、と夢見る。実際は、正規ルートで成り上がるのに嫌気がさしていて、でもドロップアウトする勇気もなく、抜け道を探していた。結局は成り上がりたかった。すごいと言われたかった。成功者と呼ばれたかった。
アレン・ギンズバーグもそうだったのだろうか。
気がつけば、若者ではなく、気持ちは若いと思っても、若者と接すると、自分は若者じゃないことがわかった。でも、じゃあ、これは何なんだ。
そこはかとない怒りや焦燥が若者の特権であるのなら、俺はもうその権利を有しない。それは自分でもそう思う。もうそこにはいない。だが、これはなんだ。
社会への怒りは実はあまりない。自分もそれほど違わないのがわかる。誰だって悪者なんかじゃない。だが、これはなんなんだ。
言葉を失っていく。中年以降のおやじたちが、言葉を失っていく理由がわかる気がする。言っても仕方がないことばかりが、腹のなかで沸騰する。その刃が自分に向くことがわかっているのだ。
だからときおり、理屈ぬきの感情だけを吐き出すべく、キレる。
キレる場所を探す。台風に見舞われた駅の改札で、駅員に食ってかかるおじさんの悲哀。わかっているはずだ。悪いのは駅員じゃない。でも、俺だって悪くない。じゃあこの頭が真っ白になるほどの怒りはどこにぶつければ。
何も悪いことをしていないのに、大切なものが奪われていく。神様のいじわる。
そんなことを書きなぐってはみたが、今のこの日々がもてていることに、ありがたい、という思いがわいてくる。
数年前までは、このようなおだやかな日々が過ごせるとは思わなかった。これでも、ずっとずっとずっとマシになったのだ。
明日がこないで欲しい、朝にならないでくれ、そんな夜を幾日も過ごしていたころもあったのだ。
湘南の海で、夕方5時のサイレンを待っている。子どもたちがサーフボードを抱えて集まってくる。こんなところで何をやっているんだろう、と自分が不思議になる。笑えてくる。一体何をやっているのだろう。俺が。こっけいな。日焼けを気にしてサンスクリーンで真っ白になった俺が、いっぱしの顔つきで、乗れる波を見つけようとしている。まだサーフボードを抱えて歩くことすらうまくできない俺が。
”自分”が社会の中を生きていく、というのは事実誤認だ。
”自分のようなもの”がもがきながら歩いている。ときどき、見知らぬ人があらわれて、あらぬところをノックする。ドアはそっちじゃない、ここだ、この眼の前にあるんだ。だが、ときどき彼らがあっているときがあって、あらぬところにドアが開く。あ、そっちから出れるんだ、と出てみると、また、そこには濃厚な空気のワールドがあり、人々が歩いていて、少し息苦しいなあ、などと感じ始める。またドアを探す。だが、目の前にあるそのドアからは、なぜか出られないのだ。
じゃあ、ということで、あらぬところにあるはずのドアを探す。でも見つからないのだ。どうしても。見つかる気がしない。本を読んでも見つからない。サーフィンをしても見つからない。ダンスをしても見つからない。きっと誰かがまたドアをみつけてくれると思っても、誰もノックしてくれない。
するとこんどは、足元にあったマンホールの蓋がズズズと音をたてたかと思うと、おかっぱの女の子が、かくれんぼしてたの、などと言ってきたりする。もしかして、そこから出れたりする?
いや、それは今考えたひとつの夢、願望、イメージ、ラビット・ホールにすぎないのはわかっている。こうやってイメージできたことは、もう起こらないのだ。
見知らぬ人だけがドアを空けることができるし、思いつかなかった場所にしかドアは開かないのだった。
にんげんだもの
今日、朝から足の甲が痛んで、整体に行ってきた。大事はないとのことでよかった。おそらく、サーフィンで自分のボードにぶつがったのだろう。
そのあと、友人の子どもに会いにいった。今日はすこしクールなお出迎えだったが、うれしかった。
物の仕組みに興味があるようで、ベビーカーのアームを付けたり、外したりをしきりにしていた。そのあとは、自動ドアのボタンを押すと開くのが面白いようで、何回も何回も押してははしゃいでいた。
そのあとは、消毒の容器をプッシュすると消毒がプシュっと出てくるのが面白いようで、何回も消毒をプシュプシュしていた。
幼い子どもはあからさまに、面白いと思ったことを、飽きるまで繰り返す。全く同じことを何度も何度も。関心を失ったら次へと関心を移していく。俺もそんなふうに一日を過ごしていたときが、間違いなくあったはずだが、残念ながら記憶はない。思い出したいものだ。
小学一年生か、二年生か、三年生か、のころ、親が、学研かなにかの、日本の歴史シリーズの本を揃えてくれた。全部で13冊くらいあったと思う。白い装丁を覚えている。僕はいまいち意味がわからないながらも、面白い気がして読んでいた。そのうちの一冊のタイトルが「大正デモクラシー」だった。僕は、デモクラシーが何かもまったくわからないまま、母親に、大正デモクラシーはね〜、と何かを話していたのを覚えている。母は、難しい言葉しっててすごいねーと言っていた。僕は、誇らしい気持ちと、本当は意味をわかってないという背徳感に、体のなかが羽毛になったようなくすぐったり気持ちを味わっていた。もちろん、母はお見通しだったことだろう。
最近、何か具体的じゃない気持ちに浸りがちになっている。役に立つことをする意欲がいちじるしく弱くなっている。ヨガや英会話や、健康食や、自己啓発や、仕事やなんや、かやだ。
具体的に成果が出ることをここのところやる気があってやっていたのに、一週間くらいまえから、どーでもいいや、という気分が支配的になり、ひとりで音楽を聞いたり、小説を読んだり、していたいなと思うようになっている。まあ、そういうモードのとき、というだけのことなんだろうけど。自分の移り気に振り回される日々。
就職活動をしているとき、1つの疑問を持っていた。今の世の中、お年寄りが尊敬されていない。むしろ時代に遅れている、お荷物用に扱われている、というか、自分がそう感じてしまっている。だけど、そのことが悲しくもあって、それは自分の未来でもあるし、どうしてこうなっているんだろう、と、ぜんぜん自分の喫緊の問題ではないのに、なんかやるせない気持ちでいた。
インディアンの酋長はもっと頼りにされていたはずだ、と。
最近、その問題に回答らしきものが得られたような気がする。
それは瀬戸内寂聴だ。彼女が回答なのだと思った。
もう100歳になるという。彼女は、尊敬され、求められている。
心から、彼女の話をききたいという人が大勢いる。この僕だって、彼女に何かを言ってもらいたい、と思う。人生の支えになるような、なにかひとことを。
そしてなにより、彼女の、心のままに生きてきた実話をきくだけで、なんだか元気になってくる。
瀬戸内寂聴みたいになれば、僕のやるせなさは無効となる。彼女は110歳のときには、さらに10年分、人びとから尊敬され、求められているはずだからだ。年齢を重ねるほどに、重みを増す言葉。
僕はこれを寂聴モデルと名付けることにした。人生目指すべきは、寂聴モデルなのかもしれない。いや、と思う。でも、身近な家族はたまったもんじゃない、ということもありうる。好き勝手に生きている人。身内だったらしんどいのかも。
まとまらなくなってきたが、不可能じゃない、ということはわかった気がした。役に立つお年寄りになることも。
本当は役に立たなくてもいいんだ、という考え方もあるとおもう。生きているだけでみんな価値があるのだ、と。でも、それは理念みたいなもので、それをまっとうすることは、なかなか難しい。
それは行き着く境地のようなもので、それを頼りに生きるられるほど、太い綱なのだろうか。
ひたすら人に優しいだけの存在になれれば、それに越したことはないのだが、それはまたそれで、真の修行の道なのだ。そんなに徹底して優しくなんてなれない。いざとなったときに、非日常的な追い詰められた状況になったときに、それでも自分がどれほどの優しさを発揮できるのか、はっきりいって自信はない。あっといまに保身に腐心し、ことがすっかり終わってから、ごめんよと懺悔し、涙が乾かないうちに、にんげんだもの、と自分を許すのだろうか。
サーフィンのジレンマ
夏からサーフィンを続けている。体力的にもうできないかもしれないと思っていたのに、もう一度、サーフィンがやれているのはうれしい。
しかし、一点だけ、困っていることがある。日焼けだ。
サーフィンは日焼けする。冬でもおかまいなしだ。ハットをかぶって、日焼け止めを塗りたくっても、しっかり日焼けしてしまうのだ。
色が黒くなるだけならいい。でも、肌が荒れたり、固くなったりしているようなのだ。肌が汚くなるのは嫌なのだ。せっかく、おしゃれを研究し、こぎれいに身繕いをしているのに、毎月きっちりとヘアサロンに通い、身だしなみをしているのに、肌が汚いようじゃあ、だめなのだ。
サーフィン、楽しいから、どんどんハマっていきたい。でも肌荒れが怖い。日焼けが怖い。サーフィンやればやるだけ上達して楽しくなる、でもそれだけ日焼けする。紫外線だ。
何かを得るには何かを代償として払わなければならない、そういうことなのだろうか。
とりあえず、日焼け止めをいろいろ試して、がんばってみるつもり。肌のせいでサーフィンをやめるなんて、女優じゃないんだから。。でも。。。
三浦春馬はサーフィンをしながらどうやってあの肌を保っていたんだろう。たんに若かったということだろうか。
ところで、三浦春馬が好きだった。彼の透明感にあこがれていた。それは見た目なのだろうか、内面からかもしだす空気感なのだろうか、だが、男性に感じることは少ない、透明感といえるものを、三浦春馬は醸し出していた。それに素敵な気持ちになっていた。
しかし、透明感とはふしぎな言葉だ。いえば、日本人なら多くの人が、どういう感じをいっているか共通認識を持てるようなのに、じゃあ透明感って何?と問うと、なかなか説明が難しい。
あの子は透明感があるか、という問にはだいたい一致する答えが出せるのに、透明感を分解するとよくわからなくなる。肌の白さ、きめ細かさ、がまず上げられるが、それだけでは透明感とはいえないのだ。
どこか、遠い存在のような感じ。俗世間にいない、天使の世界にいる、そんな感じも少し必要なのだ。
そういえば、今ふと思い出したが、若い頃、ディスコでバイトをしていたとき、サーフファーだという男性客が、数ヶ月に一回、ぶらりとやってくることがあった。背が高く、日に焼けて、洒落ていて、男の僕から見てもかっこいいやつだった。雰囲気はチャラ男の反対で、寡黙で、ナンパもせず、かといって踊りもせず、ただ、ぼうっと立って酒を飲んでいた。今思えば、影でナンパしていたのかもしれないが、いつもひとりで来ていて、変わった客と思っていた。
そういえば、僕とほぼ同時期に入ったアルバイトの男の子は、大学生だったのだが、頭の中で声が聞こえるようになって休学中なのだといっていた。ものすごくしずかでおとなしのいに、ダンスタイムになると狂ったように叫ぶので、面白がられ、かわいがられていた。
かといえば、16歳で一人暮らしをしているという女の子もいた。たしか、お金も自分で稼いでいたはずだ。いつもハイテンションで明るかったが、今思えば、そうとうの苦労があったはずだ。
僕の教育係だった先輩は、歯がなかった。シンナーで溶けたのだという。怖かったがやさしかった。
僕と同日に入ったアルバイトの男の子は、去年まで暴走族をしていたということで、写真を見せてくれた。警察署までいって解散届を出したという話を聞かせてくれた。礼儀正しくてかっこいいやつだった。
僕は、高校生まで酒もタバコもしたことがない、およそ不良の要素がゼロのまじめ優等生だったので、たった一年で真逆のような人たちに囲まれていたことは、今思えば驚きだ。でも僕はあまりに若かったので、それなりに馴染んでいくことができたのだった。もちろん、馴染み切ることはできなかったのだけど。
この時代は、いわゆる黒歴史なのだと思っていた。大学も行かずに、バイトと遊びに明け暮れていた。今思えば狂っていた。女性関係も荒れていて、今、パートナーと言える女性がいないのは、このときに悪い女性感、恋愛感を身に着けてしまったからではないのか、とずっと疑ってきた。ツケは大きかったな、と。
でも、やっぱりあれは必要な体験だったのだと今日、この瞬間は思っている。世の中にはいろんな人がいろんな風に生きていて、どこかにいきるよすがを見つけて、なんとか生き延びようとする。
そんなことをおもだしたのは、「推し然ゆ」を昨日読んだからかもしれない。
僕にとって黒歴史の舞台とも言えるあの場所は、生きるよすがだったのかもしれない。うっかり入ってしまったぬかるみなんかではなくて、さがしまわってようやく探り当てたオアシスで、汚れた黒い水をガブガブと飲むことで、僕は生き延びようとしたのかもしれない。
まったく人間とは不思議だ。普通に18年間生きてきただけの、なんの変哲もない男の子が、大学の教室にもサークルにも体育会にも学園祭にも、夢見たはずの青春を見いだせず、消えてしまいたいとまで思っていたあのころ、僕を救ったのは黒い水だったのだ。
そのことは、偶然ではないのかもしれない。あの水を飲むしかなかったのかもしれない。その構造はまだ紐解けていないけれど、孤独者が寄ってたかって乱痴気騒ぎをしているあの場所が、16歳の家出少女と同じように、僕の居場所だったのかもしれない。あくまで、仮の、なんだろうけれども。
オアシスは喉が癒やされ、体が休められたら、出ていかなくていけない。ただ、そういうことだったのかもしれない。