2つの自由

今朝、予定より早く目がさめてしまったベッドで、「自由」って2つあるよなあ、ということをぼんやりと考えていた。

 

たとえば、僕はお金にコンプレックスがあるようで、お金を十分に稼いでいない、みたいな気持ちに恒常的になっている。それは、具体的に生活が苦しい、とか、今あれをしたいけどそのお金がない、ということではなく、同級生たちはきっとこれくらい稼いでるなあ、僕の年齢ならこれくらい稼いでいて当たり前なんだよなあ、とか、将来家が欲しくなったときに貯金がないよなあ、ローンが通らないよなあ、みたいなぼんやりとした不安だ。

だが、常に頭の片隅にあってうざがらせをしてくる。

そのくせに、お金を稼ぐことに熱をあげている人たちを見て、どこか小馬鹿にするような意識もあるから始末に負えない。あーあ、お金なんかに血相変えて、それが人生でいいのかね。

でも達観できているわけでもなく、結局はお金に支配され、振り回されている感がまったく否めない人生なのだ。

そんなふうに、いつもお金の不安や恨み節をうだうだ言っているものだから、人からは、「いっそのこと十分だと思えるまでお金を稼ぐことに集中してみたらどうだ」と言われたことがある。

その能力があったらもうやってるよね、と思ったものの、でも、もしかして「お金儲けに集中するなんてダサい」という色眼鏡をはずして、持てる全能力をそこに注げば、あるいは、今自分がこれだけ稼げれば十分なのにな、と思える額を稼げないこともないのかもしれない、とは思ったりしていた。

もちろん、全能力を注げれば、だ。それもまた、ほとんど不可能なのはわかっている。

だが、こうしたお金をめぐる問題を「自由」という観点から考えてみると、2つの道筋があることがわかる。

1つは、今言ったように、お金持ちになることで、お金から自由になる、という道筋だ。たとえば、異論はあるかもしれないが、年収が2千マン(いや1千マンで本当はいい)あって、それが基本的にずっと続く見込みがある場合、僕がいま感じているお金の不安からは脱することができる気がする。最初は不安でも、それが5年もつづいて、貯金も数千万円あって、収入もそれだけあって、いうことになれば、当面、お金がなくてどうしてもしたいこと、してあげたいことができんなくて困る、ということはなさそうである。もちろん、今の生活水準、欲求に照らせば、である。生活水準を上げてしまえば、そのかぎりでないことは言うまでもない。

 

そして、もう1つの道筋は、「収入が(人より、周囲より)少なくても充実して生きられるように生きていくと決める」という自由への模索だ。もちろん、それは、いっときの決断や覚悟だけでなく、具体的なノウハウの集積や、精神的タフネスが求められるだろう。たとえば、年収100万でも自分(と家族)の幸福は少しも妥協せず求めていく、実現することができる、というように生きるということだ。そうしている、できている人たちが日本にいないとは思わない。ただ、まれではあるかもしれない。

 

違う例題を見てみよう。たとえば、学歴コンプレックスというものがある。自分は高校を出ていない、ましてや大卒ではない。だからどこか負い目を感じて生きているという人がいるだろう。

そういう人からそれが悩みだと打ち明けられたら、僕なら、「学歴なんて形式だけで実態はないよ、それより好きなことをやり続けて生活できるようになるべく、具体的なスキルや経験を積むことに集中したほうが遥かに有益だよ。本当にそう思うよ」というだろう。

だが、それは一見正論ではなるが、本当に実践的なアドバイスなのかというと、そうとも言い切れないところがある。

本人は、大卒という立場になったことがない。だから、それがあれば自分はもっと自信が持てるのにと思っている。他人がいくら、そうじゃない、と言ったところで、本人が体験したことでないと、身にしみてはわからないだろうし、アドバイスをしている僕自身が、本人と同じ立場になったことはないので、本当の彼の気持ちはわからないのだ。

長くなったが、この学歴コンプレックスという悩みから「自由」になる道筋は2つあることがわかるだろう。

1つは、「学歴なんて意味無し、そんなのと関係ないところで人生を築いてく」と決めて生きていく道筋。

もう1つは、「これがあればと思える学歴を実際につけてしまう」という道筋。その結果がどうなろうと、少なくとも、いま現時点の「学歴がないから。。」という悩みは消えるか、形をかえることになるだろう。

 

今回はこのあたりにしておこう。「自由」にもいろいろな道筋の自由がありそうだ、という話でした。