いてもたってもいられない

誰だったか、保坂和志だったか、橋本治だったか、本当にいい文学は、読んだ人を、いてもたってもいられない気持ちにさせる、というようなことを書いていた。

なんだかわからないけど、何かをせずにはいられない気持ちになるということだろう。さっき、前川さんの記者会見をLIVEで見ていたら、あまりに主張が合理的でわかりやすかったので、なんだ、家計学園問題の何が問題なのかってけっこうわかりやすい問題なんじゃないの?と思った。そして、なんだか、すこし、いてもたってもいられない気持ちが芽生えた。少し。

でも、本当はこの記事を書かせたのは、原田知世が歌う、「夢の人」であることは明らかである。この歌を聞いていたら、少し、いてもたってもいられない、気持ちになってきた。

誰かがこの曲を選び、誰かがこのアレンジにしようと決めたのだ。どこかで誰かが、素敵なものをつくろうと知恵と経験をしぼっている。

人間は耽溺できないようにつくられている。

いま、この曲が素晴らしいと思って、浸りこみ、ある気分になれて、ずっとこれを聞いていたい、と思ってリピートしていても、100回も聴く前に、効果が薄れてしまう。あの気分がどこかへ行ってしまう。ただのBGMに近づいていく。

あらゆる幸福の瞬間がそうであるように思う。どの瞬間も、その瞬間にとどまり続けることができないから瞬間なのだ。

人類が5千年くらいだろうか、無数の創造を行ってきたが、まだ究極の一曲は登場していない。万人がこれさえ聞いていれば、ずっと永遠に幸せ、といいような音楽だ。おなじように、究極の小説も、究極の格言も生まれていないと思う。特定のときに、特定の範囲に人に、特定の効果を、特定の時間だけ及ぼすことができるものが、あとからあとからつくられていくばかりなのだ。

天使のようだった子どもも、小生意気な小学生になってしまう。

鏡のなかの自分も、昔の自分ではなくなっている。

今回、勝負ではないが、勝負だとすれば、前川さんの勝ちだ。少なくとも、前川さんの会見を見ていると、なんだか少し、いてもたってもいられなくなるような気がしてきた。安倍さんの会見には、みじんも心が動かなかった。それはもう、負けなのだ。言葉の力の差が歴然としている、とそんなことを思った。

 

映画「メッセージ」を見に行ったという友人が、最後のところで、知らないうちに泣いていたと言った。うらやましかった。それが感動というものだ。僕は涙は出なかった。泣いたから感動ではなく、知らないうちに、というところに嫉妬する。むかし、ある映画のキャッチコピーで、「悲しみは加速する。涙は追いつかない」的なものがあったが、そういうことなのだ。

自覚意識が追いつかずに心が(体がと言ってもいい)が反応している。もう感動している。