断捨離成功とFisrt Love

年末に断捨離に成功してしまった。

今住んでいる部屋に引っ越してから5年間以上、いちども、満足いくまで物を捨てられたことはなかったのだが、たった、今、ほぼ満足いくまで物を整理できてしまった。

自分でも驚いている。何があった?

部屋の物を減らすのは僕の悲願みたいなもので、人にも相談したし、本も何冊も読んだし、コンマリのNetflixの番組も見て、物捨て熱を盛り上げるのだが、必ず、高価だった服を捨てる、まだ使える文房具を捨てる、本を減らす、人からもらったものを捨てる、などにいちいち引っかかって、エネルギーを消耗し、ああ、俺には無理なんだ、おれはあいつらとはちがうんだ、ミニマリストとかじゃないし、、と挫折を繰り返してきた。

最近などは、使えるものを大切にするって逆にいいことなんじゃない? 買っては捨てる、なんて資本主義消費社会にやられちゃってるんだよ、俺はもったいないの精神をまだ持ってるんだから、と自己正当化をしてさえいた。

でも、やっぱり物が床まで侵食する部屋を見渡すたびに、うんざりしていた。

それが、なぜか手を付けてから4、5日で、ほぼ、満足いくまで片付いてしまったのだ。

 

きっかけは、おそらく、加湿器だった。

3年前に別れた彼女からもらった加湿器を捨てたところからだった気がする。

当初は捨てる気はなかったのだ。ただ、今年の冬はやけに乾燥するし、加湿器を使おうと、押し入れから出してスイッチを入れたら、なにやらモーター音のような異音がする。うるさくて使えない。もう捨てるしかないなあ、ということで捨てようと思った。そのとき、どこかほっとしたのを覚えている。

そのあたりから、気持ちに加速がついて、本を半分以下に減らし、服も半分になり、まだ使えるというだけで何年も手にとっていなかったものを捨て始めたら、あれよという間に、部屋が片付いてしまったのだった。

もっとも、まだ捨てられるもの、捨てるべきものは残っている。だが、気持ちは「成功した」という実感がじわじわと湧いている。まさかできるとは思っていなかった、くらいに。

そして、今日、手紙の整理をしようと思った。大半は、姪っ子からの手紙だった。

それを読み返していたら、切なくなってきてしまった。「だいすき」から始まる、こんな愛らしい手紙を、何通ももらっていた。そのことを軽く考えていた。いま後悔している。あの頃は、子どもってかわいいなあ、くらいに思っていた。あまり返事も書かなかった。また手紙送ってきたよ〜、かわいいなあ。くらいに流していた。でも姪ももう11歳。そんな手紙をくれる年頃ではいつのまにかなくなっていた。

コロナで3年も会えなかった。そのことが今とても悔しい。二度と返ってこない時間なのだ。幼いがゆえに、近親者である「おじさん」の僕は、特別に好きの対象だったはずだ。そのことの恩恵を存分に受けてきた。本当に幸せだった。うれしかった。何もしていないのに、おじさんだというだけで、こんなに愛してくれる。子どもは天使、ほんととうによく言ったものだ。

だが、それも永遠に続くものではない。当然だ。それでいい。それが成長というものだ。友達ができ、好きな子ができ、そうやって思春期へ向かっていく。そうでなくては困る。いつまでも、おじさんが大好きでは困るのだ。でも、少しさみしい。

姪からの手紙は捨てられなかった。捨てる必要もないと思う。かさばるものでもない。

ただ、同時に、姪に好かれている、好かれていた、ということをいきがいのようにしてはいけないのだ、と改めて思っている。

 

Netflixで「First Love 初恋」というドラマを見た。すばらしい作品だった。とくに、第8話のラストシーンは、何度再生したかわからない。

記憶喪失になるお話だ。そういうドラマは割とよくある。でも現実では僕の周囲で聞いたことはない。まあドラマの中のお話でしょ、というふうに今までは思っていた。ドラマを盛り上げる設定が必要だもんね、と。

でも、あ、そうじゃないかも、と今日は思い直していた。

ドラマのような記憶喪失、高校時代の3年間の記憶をまるごと失くしてしまう、などのことは、今後の人生で、自分やパートナーが体験することは、まずない。

だけど、大切な人との大切な日々を、すっかり忘れて生きてきてしまった、ということは、あるのではないか。そう思った。あるいは、忘れてはいないにせよ、そのときは(ときには、その後でも)それをそれほど大切な時間だとは思っていなかった、などということは、いくらでもあるのではないだろうか。

先ほど述べたように、姪が小学1年生のときからの手紙をずっと読み返していて、ああ、もっとちゃんとお返事を書いてあげればよかった、と後悔している。

きっと、るんるんでお手紙を書いてくれて、ママにポストに入れてくれるように頼んだら、返事がくるのを今か今かと待っていたのではなかろうか。そして、ちっともこないから落胆しつつも、また手紙をせっせと書いてくれていたのだ。

子どもがそうした美しい日々を1日、1日、と生きていて、その美しさになかに「おじさん」である僕も決して小さくない領域を占めていたということを、僕はうっかり軽視してしまっていたのだ。そのことをもっと感謝し、喜び、噛み締めながらともに時を過ごすべきだった。

そして、そのことをどんなに後悔したとしても、もう決してやり直しはできないのだ。

いまさら追いかけてももう遅いのだ。

 

ドラマFirst Loveにこんなシーンがある。也英は、離れて暮らしている息子の綴と、会える日を心待ちにしている。そして、今日も待ちに待ったその日が来た。レストランで一緒に食事をしていると、綴がそわそわしている。何?と聞くと、どうやら気になっている女の子が今、どこかでライブパフォーマンスをしているらしい。つまり、その子のところへ行きたいのだ。久しぶりにお母さんとの時間を過ごすよりも。

いつのまにか綴は14歳になっていた。恋をする男の子になっていた。

也英は、離婚してから、10年ほど、おそらく恋をしてこなかったのだろう。なによりも息子を愛し、息子にときどき会える、成長を見守れる、それだけで満たされて生きてこれた、あるいは、満たされることにしようと決めて生きてきたのだ。それで十分だ、それ以上に何を望む、と。

息子も自分に会うことを心待ちにしていてくれる。会えば飛びついてきて、帰りには離れたくないと泣いたはずだ。そんな息子をなだめながら、またすぐ会えるからね、と自分にも言い聞かせてきた。

だが、どうだ。目の前のすっかり成長した息子は、目の前の母よりも、Instagaramの中の女の子に夢中だ。いつしか、もう離れたくないと泣くこともなくなっていた。

恋愛、結婚、パートナーという愛を断念し、息子を愛し生きようとした。親子の愛を生きる糧にした。できた。でもそれも、永遠でないことを悟るときが来た。もちろん、愛は消えることはない。だが、それだけで身をいっぱいにすることは、はばかられる、そういう愛に形をかえようとしていた。

僕は恋愛が下手のようだ。友達にそう言われたこともある。恋愛というか、恋人、パートナーとともに歩んでいく、ということに失敗し続けきた。いや、踏み出すことさえできてこなかったのかもしれない。苦手なんだ、向いていないんだ、それだけが愛じゃない、相思相愛の姪もいる。姪を一生かわいがっていけばいい、姪じゃなくても、子どもには好かれるほうだ。友だちの子どもも僕が大好きだ。そうやって誰かの子どもを愛して生きていけばいい、みたいに少し思ったりもした。でも、それはそれで素晴らしい愛なのだが、その愛は、パートナーとの愛とは違うもので、代替できないものなのだ。そのことを、今、改めて思っている。

かつての恋人からもらった手紙をようやく捨てる。めめしく写真に撮ったりしてみた。なぜそんなことをしているんだろう、と自分でも思いながら。もう未練はないはずで、納得して別れたはずなのに。

First Loveの第8話のラストシーンを見返しながら、ああ、そうだ、と思った。

うまくはいかなかったし、ヨリをもどしてもうまくいくとは思わないし、付きあっている時間のすべてが幸せだったわけではないのだが、大切な時間であったことには、間違いがないことを、きちんと受け入れなくちゃいけない。思いもよらぬギフトであったことを。自分にとってとても大きなことであったことを。

つまり、僕は、3年間、それなりに、あの恋を引きずっていたということになるのだろうか。

人生は短すぎる。不当だとさえ思う。まだ知りたいことがたくさんあるのに。まだわかりたいことがたくさんあるのに。まだ体験したいことがたくさんあるのだ。