サーフィンのジレンマ

夏からサーフィンを続けている。体力的にもうできないかもしれないと思っていたのに、もう一度、サーフィンがやれているのはうれしい。

しかし、一点だけ、困っていることがある。日焼けだ。

サーフィンは日焼けする。冬でもおかまいなしだ。ハットをかぶって、日焼け止めを塗りたくっても、しっかり日焼けしてしまうのだ。

色が黒くなるだけならいい。でも、肌が荒れたり、固くなったりしているようなのだ。肌が汚くなるのは嫌なのだ。せっかく、おしゃれを研究し、こぎれいに身繕いをしているのに、毎月きっちりとヘアサロンに通い、身だしなみをしているのに、肌が汚いようじゃあ、だめなのだ。

サーフィン、楽しいから、どんどんハマっていきたい。でも肌荒れが怖い。日焼けが怖い。サーフィンやればやるだけ上達して楽しくなる、でもそれだけ日焼けする。紫外線だ。

何かを得るには何かを代償として払わなければならない、そういうことなのだろうか。

とりあえず、日焼け止めをいろいろ試して、がんばってみるつもり。肌のせいでサーフィンをやめるなんて、女優じゃないんだから。。でも。。。

三浦春馬はサーフィンをしながらどうやってあの肌を保っていたんだろう。たんに若かったということだろうか。

 

ところで、三浦春馬が好きだった。彼の透明感にあこがれていた。それは見た目なのだろうか、内面からかもしだす空気感なのだろうか、だが、男性に感じることは少ない、透明感といえるものを、三浦春馬は醸し出していた。それに素敵な気持ちになっていた。

しかし、透明感とはふしぎな言葉だ。いえば、日本人なら多くの人が、どういう感じをいっているか共通認識を持てるようなのに、じゃあ透明感って何?と問うと、なかなか説明が難しい。

あの子は透明感があるか、という問にはだいたい一致する答えが出せるのに、透明感を分解するとよくわからなくなる。肌の白さ、きめ細かさ、がまず上げられるが、それだけでは透明感とはいえないのだ。

どこか、遠い存在のような感じ。俗世間にいない、天使の世界にいる、そんな感じも少し必要なのだ。

 

そういえば、今ふと思い出したが、若い頃、ディスコでバイトをしていたとき、サーフファーだという男性客が、数ヶ月に一回、ぶらりとやってくることがあった。背が高く、日に焼けて、洒落ていて、男の僕から見てもかっこいいやつだった。雰囲気はチャラ男の反対で、寡黙で、ナンパもせず、かといって踊りもせず、ただ、ぼうっと立って酒を飲んでいた。今思えば、影でナンパしていたのかもしれないが、いつもひとりで来ていて、変わった客と思っていた。

そういえば、僕とほぼ同時期に入ったアルバイトの男の子は、大学生だったのだが、頭の中で声が聞こえるようになって休学中なのだといっていた。ものすごくしずかでおとなしのいに、ダンスタイムになると狂ったように叫ぶので、面白がられ、かわいがられていた。

かといえば、16歳で一人暮らしをしているという女の子もいた。たしか、お金も自分で稼いでいたはずだ。いつもハイテンションで明るかったが、今思えば、そうとうの苦労があったはずだ。

僕の教育係だった先輩は、歯がなかった。シンナーで溶けたのだという。怖かったがやさしかった。

僕と同日に入ったアルバイトの男の子は、去年まで暴走族をしていたということで、写真を見せてくれた。警察署までいって解散届を出したという話を聞かせてくれた。礼儀正しくてかっこいいやつだった。

僕は、高校生まで酒もタバコもしたことがない、およそ不良の要素がゼロのまじめ優等生だったので、たった一年で真逆のような人たちに囲まれていたことは、今思えば驚きだ。でも僕はあまりに若かったので、それなりに馴染んでいくことができたのだった。もちろん、馴染み切ることはできなかったのだけど。

この時代は、いわゆる黒歴史なのだと思っていた。大学も行かずに、バイトと遊びに明け暮れていた。今思えば狂っていた。女性関係も荒れていて、今、パートナーと言える女性がいないのは、このときに悪い女性感、恋愛感を身に着けてしまったからではないのか、とずっと疑ってきた。ツケは大きかったな、と。

でも、やっぱりあれは必要な体験だったのだと今日、この瞬間は思っている。世の中にはいろんな人がいろんな風に生きていて、どこかにいきるよすがを見つけて、なんとか生き延びようとする。

そんなことをおもだしたのは、「推し然ゆ」を昨日読んだからかもしれない。

僕にとって黒歴史の舞台とも言えるあの場所は、生きるよすがだったのかもしれない。うっかり入ってしまったぬかるみなんかではなくて、さがしまわってようやく探り当てたオアシスで、汚れた黒い水をガブガブと飲むことで、僕は生き延びようとしたのかもしれない。

まったく人間とは不思議だ。普通に18年間生きてきただけの、なんの変哲もない男の子が、大学の教室にもサークルにも体育会にも学園祭にも、夢見たはずの青春を見いだせず、消えてしまいたいとまで思っていたあのころ、僕を救ったのは黒い水だったのだ。

そのことは、偶然ではないのかもしれない。あの水を飲むしかなかったのかもしれない。その構造はまだ紐解けていないけれど、孤独者が寄ってたかって乱痴気騒ぎをしているあの場所が、16歳の家出少女と同じように、僕の居場所だったのかもしれない。あくまで、仮の、なんだろうけれども。

オアシスは喉が癒やされ、体が休められたら、出ていかなくていけない。ただ、そういうことだったのかもしれない。