予感とさわやかさ

昨年から資料集めを手伝っていた吉福さんの本が、来年、出版見込みという話を聞いた。図書館でコピーしまくったかいがあった。

しかし、不思議なもので、まだ出版されるまでは油断できないのだが、頼まれて資料を集め始めたときは、本当に出版されるか、50%くらいしか思っていなかった。だけど、不思議なもので、とりあえず始めたことで、コンプリートさせたいという気持ちが芽生えてきて、最後のほうは、手に入るあてがあるものを手に入れないことがなんだがもどかしい、というコレクターのような気持ちになっていた。福岡の古本屋から若干プレミアつきの80年代の雑誌を取り寄せたのに、ほかの本からの転載しただけの1ページの記事があるだけなのを発見して、「この、バブルに乗じてイケてる感だけで売ってたクソ雑誌が!」と罵倒したりしていた。同じわずか1ページでも、掘り出し物もあった。名前を出そう。「別冊宝島」だ。何冊が入手したが、どの号もすばらしい、少なくとも面白い記事を載せていた。

クソみたいな雑誌の名前はふせておこう。有名なおしゃれ雑誌です。

 

みたいなことがありながら、集めに集めた資料から、編集者が厳選した原稿案を見せてもらいながら、よくわかんねえ、って気持ちになっていた。

よくわかんねえ、のは、僕が吉福さんにどうしてこれほど関心を持っているのか、ということだった。言えそうで言えない、いかがわしそうで、まっとうそうで、理由がうまく掴めない。

 

何度も書いてきたことではあるが、吉福さんを最初にはっきり意識したときのことを覚えている。入り口は本だった。どの本が最初だったかは忘れてしまったが、まずは本を読んで、面白いことを言うひとがいるなあ、と思っていた。だけど、まだ、たくさんあるその手の本の著者のひとり、という域を脱していなかった気もする。1つ抜けたのは、知人の家で吉福さんの本を見つけて、あ、これ知ってる、と言ったとき、その知人が吉福さんの旧知だったらしく、「あ、吉福さんね、セラピストやめて、ハワイでサーファーになっちゃったよ。そういう人なんだよ」と笑ったときだ。

そのとき、「おっ」と思った。「へえ」と思ったのかもしれない。

頭のなかに、サーフボードを抱えてハワイの風に吹かれている、まだ写真も見たことがなかった吉福さんのイメージが浮かんだ。

僕はそのとき、ハハハ、変わった人ですね、みたいな返答をしたと思う。だけど、そのとき、「へえ、それっていいじゃん」という感じがあったし、なんだか信じられるね、という感じもあったし、ハハハと乾いた笑いが自分から出たことも、喜ばしいことに感じた。胸の中にさっと風が吹いたような感覚があったような、なかったような。

そのとき、今思えば、予感めいたもの、きっとこの人と会うことになる、あるいは、自分は近づいていくことになる、と、熱くではなく、切実でもなく、切望でもなく、ただ、ぼんやりとさわやかに感じていた気がする。

 

記憶はあとづけで編集されるものだから、断言はできない。が、そんなことがあった気がするし、本当にそういうことがあったかどうかは、もはや重要ではない、という気がする。そういうふうにぼくのなかにストーリー化されている、ということだ。

 

でも、ある意味、後々に実際に会った吉福さんは、あのとき、さわやかにハワイの風とともにイメージした人とは、まるで違う、真逆のような人であった気もする。するし、いや、むしろイメージどおりだったともいえるような気もする。

 

というように、吉福さんのアンソロジー本に関するミーティングに出かけようと、井の頭線に乗っていた、先週のことである。

僕は最近話題の哲学の本を、シャープペンシルで線を引きながら、読んでいた。かなり真剣に読んでいたように見えたはずだ。

その車両に、5−6歳くらいの子どもたち10人ほどと、引率の大人数人がドヤドヤと乗り込んできた。

すると、間髪をいれず、1人の男の子が、何の迷いもなく僕の目の前に立ち、何の迷いもなく、開いている本の「表紙」を覗き込んだ。座っている僕が膝の上で開いている本の表紙を覗き込むわけだから、子どもといえど、ものすごく首を曲げて、あからさまに覗き込まないと覗けない。覗き込んできた。僕は「あっ」と思った。「やられたっ」と思った。

うれしかった。いきなり間合いに入られる、ある種の快感があった。もちろん、相手が大人だったら怖かったかもしれない。子どもだから、ほほえましかった。

そんなに表紙が見たいのかと思い、表紙を見せてあげたら、すすすっとあっちへ行ってしまった。「やるじゃん」と思う。好き放題だ。本に目線を落とし、また線を引き引き読み始めると、こんどは、「ぼくはエビフライ! わたしはそのとなりのしかくいやつー!」などと目の前あたりが騒がしくなっていて、目を上げると、子ども3人が熱い視線を僕の頭のすぐ上あたりに注いでいた。振り返ると、そこに何かの広告が貼ってあった。ぼくの頭の裏だ。だから、子どもたちの目線は、ほとんど、僕の頭にもぶつかってくる。おれはどうしていいかわからず、本に目線を落とし没頭し、集中しているようなそぶりを見せたが、子どもたちは一歩も引く気がないらしかった。

これでは本なんか読んでられない、うんよくとなりの席があいたので、1つズレてあげた。これで広告見放題だ。やれやれ、と思っていたら、こんどは僕があけたその席に、さっき表紙を覗いてきた男の子が、早速乗り込んできた。広告はもういいのか?? すると、そのとなりに、女の子も乗り込んできた。1つの席スペースに2人座ったということだ。ふと目を上げると、3人目の女の子が、さみしそうな目で、僕と子どもたちのすき間のスペースをみつめている。僕が少し身をよじれば、座れないこともない。しかたがないから、逆どなりが若い男だったにもかかわらず、僕はそちらに少し身を寄せ、すき間をあけた。

そこまでしたのに、こんどはその女の子は躊躇しているようだった。お友達も、ここに座り、と言ってあげない。若い男に身を寄せた俺がバカに見えるじゃないか! 僕はもう仕方がないから、ここにお座り、というジェスチャーをするしかなかったのだった。

 

果たして、女の子は僕のとなりに出来たすきまに、ものおじしながら座った。見やると、下を向き、身を固くしていた。ぷるぷると緊張で体が震えているようにさえ見えた。なんか悪いことしたかな、本当は座りたかったわけじゃないのかも。。ちょっと気まずい気持ちになりながら、こんなに全身全霊で緊張できるなんて、こどもってやっぱりかわええ、と思わざるをえなかった。

そして、しばらくして、彼らはまた、ドヤドヤと出ていった。振り返りもせずに。。。「やられた」 蹂躙された。もう僕は哲学の本に戻ることができなかった。こんなこむつかしいこと、どうでもええわ、本当のこと言えば、と思えてきた。

 

だけど、悲しいことに、また、ひとりになり、考え事をして、気持ちが煮詰まってくると、哲学の本を開いてしまうのだった。どうでもいいことは、わかっているのにな。