春をうれしんで

春になって、やっぱり東京に出てきた。

5年前に東京を出たときと、そのまま接続されたような日々が始まった。面白いもので、5年前に東京を出たあと、一年ぶりに東京を訪れたとき、そしてかつて住んでいた街を歩いたとき、ああ、もう懐かしくない、ここはぼくの居場所ではなくなったんだ、と、知っているのに知らない街のような、違和感を感じた。その翌年、また短期で訪れたときも、知ってるけど親近感の湧かない街になっていることを確認した。

なのに。

今は、本格的に住むのは5年ぶりなのに、街が、5年前とちっとも変わっていないような気がする。5年前と同じ大道芸人、5年前と同じ店を見つける。そうそう、こんな感じ、こんな道、馴染みの場所に帰ってきた気分で歩いた。ゲンキンなものだ。

ということは、やっぱり、しばらくこの街にいるつもりなのかもしれない。

 

最近、理由があって古い雑誌を調べ回っていた。そのなかに、1976年の別冊宝島がある。植草甚一が監修している。植草甚一、面白い人だったらしい。少し調べた。趣味人で、古本屋を巡り、毎日大量の本屋ざ雑貨を買って帰ったという。

いろいろな雑誌を手に取ったが、なぜか、この宝島だけが、輝いていた。編集部の想い、若さ、希望、みたいなものが伝わってくる気がした。この時代のこの編集部に遊びに行きたいと思った。若さの良さのひとつは、世の中の未来、自分の未来に、やはり明るい、いささか誇大妄想的かもしれないが、やはり希望をいだいていることだ。抱かずにはいられない年頃なんだと思う。

俺達が世の中を変えられるかもしれない。たとえ小さな変化でも、大きな流れにつながる一石を投じることができるかもしれない。そんな思いが伝わってくる。

そして、いまも、そんな若者がたくさん、たくさん、何かを企み、もがいているのだ。

井の頭どおりを歩いていると、そんな若者かもしれない若者たちが歩いている。駅へ向かっていくと、コンビニから、まだ10代かもしれない女の子が出てきた。すました感じで当たりを見回し、つとつとと歩いていく。この春上京したのかもしれない。鼻先が少し上を向いている、つまりは街の匂いをかいでいる。その目に表れているのは、好奇心であり、小躍りする心であるように、映った。

ほほえましい。だが、わからない。どんな人だって、どんな年齢だって、それなりの、なにかを背負って、それなりの事情を抱えていたりする。だから、勝手なイメージにすぎない。

だが、わかっている。今、春を春として楽しもうという気分で少しでもいられるのは、移動したばかりだからだ。もうしばらくすると、日々の現実、というか、前々からの悩み、課題で頭がいっぱいになって、周囲が見れなくなる。街の匂いがかげなくなる。それはわかっている。お酒もまずくなる。わかっている。今だけだ。

何らかの移動を起こし続けること。それが春を春として言祝ぐことができる条件なのかもしれない。おれの場合。

中央へ、東京の中心部へ攻め上がろう、とふんどしをしめる気持ちで出てきたのだが、最近お気に入りの場所は、都心とは逆方向に電車で15分ほどいった図書館である。新築のようにきれいで光もいっぱい、気持ちいい。学生たちが遅くまで勉強しているのも刺激になる。併設のカフェコーナーでまったりしながら、果たしてこれでよかったのか、と心配になった。都心のコワーキングスペースを借りるんじゃなかったのか。

まあいい、まだ4月だ。5月になったら考えよう。ただし、動き回るなら、梅雨がくるまでに、だ。

ぼくは考え込んでいた。吉福さんから何を継承すればいいのだろう。真似はできないし、真似したくないところもいっぱいある。だけど、なにかは継承したい。あんまり重いものは困る。おれはそんなに強くない。

夕方、姪っ子から着信が。とれなかったので、電話をかけ直した。つながる。姪っ子が出る。声が聴こえる。こども独特の、平板な、明るい声だ。もしもし、あれ?あれ?と言っている。どうやら、こっちの声が聞こえていないようだ。姪っ子の母が受話器を変わり、すぐに切ってしまった。大人はこれだからいやだ。

結局、ぼくの携帯はインターネット電話をつかっているので、うまくつながらなかったということだ。でもこの一方通行の電話で、元気が注入された気がした。ぼくがどんな壁にどう悩んでいようと、5歳の姪っ子は知ったことではないのだ!

 

夕方のパンとおにぎりで終えたはずの晩飯が、どこかものたりなく、結局、コンビニで、ラーメンサラダなるものを買ってしまった。何か土産がないと家に帰りたくないのだろう。そしてそれは、意外とうまかった。明日も買ってみようかなと思った。