これから得られるものよりも、失うものの心配をしている。

これから得られるものよりも、失うものの心配をしている。

今年に入ってから、そんな日が続いている気がする。

思えば、ずっと前からそうだったのかもしれない。

 

公園を通りがかったら、2歳くらいの子どもがしきりと目線を送ってくるので、アレ?と思ってら、友達の子どもだった。

マスクをしていたのによくわかったな〜と思いながら、ひさしぶりと声をかける。おそらく、うれしそうにしていた。そのことがうれしい。

 

子どもは、自分の背の1.5倍はある鉄棒の下をくぐるときに、下を向き、必須に頭をかがめてくぐった。笑った。おかしくて、せつなくなった。どうしてこんなにかわいい。

 

子どもが抱っこしてほしいとジェスチャーをしたので、抱っこした。子どもは、僕の首に手を回して、首の後をコリコリと掻いた。そのしぐさに、懐かしさを感じた。逆の立場でそんなことをしていた頃があるような気がした。誰かの太い首に腕を回し、首のうしろをコリコリとした。

静かな時間が流れて、どうしよう、と思った。

子どもは、地面に降りたがった。この切り替えの速さもまた、子供らしく、好きだ。すぐに何かに関心を移し、とことこと歩いていった。

 

仕事もせずに海外をほっつきあるいているとき、父は何も言ってこなかった。関心がないのだと思った。そのことを友だちに愚痴ろうとしたら、君のことをよほど信頼していたんだよ、などとのたまう。そんなんじゃないんだよ、といいかけながら、それが一番聞きたい言葉だったことがすぐにわかった。

 

もう何ヶ月も、それなりに眠れる日が続いている。すごいことだ。睡眠障害をほぼ克服したのだ。夜寝て、朝起きることができる。

なにより、睡眠について、もはや、眠れないのでは、という不安感も、また昼過ぎに起きてしまったという罪悪感もなくなったことの、解放感は大きかった。

しかし、最近、また、少しずつ、寝る時間が遅くなりつつある。

不思議なもので、睡眠習慣が改善したおかげで、明らかに、頭と体がきちんと機能している時間が長くなったにもかかわらず、一日が短く感じる。なにか欠けている気がずっとしていた。

おそらくそれは、「悩む時間」なのかもしれない。じりじりと答えもなく、焦りつづける、あの不毛な時間が欠けている。

それは恐怖の源でもあると同時に、強烈な「俺はここにいる」という感覚をもたらしていたのかもしれない。俺は今ここで、こんなにも焦っている。

 

もちろん、そんなところから、生の実感を調達するなんて馬鹿げている。だが、かわりのものが見つかるまで、あるいはなれるまで、なにか物足りない感が続くのかもしれない。

 

願わくば、もっと何か違うところで、生きているという実感を、感じたいものだ。新しいパターンを必要としている。

 

不安ではない何かを。