ププリオのライブ

スペインから来日していた旅のアーティストのライブに先日、行っていた。ギターをパーカッションのように叩いたり、ピアノみたいに弾いたりする変わった奏法だったが、音楽はとても気持ちよくて、ちょっとせつなくて好きな感じだった。

 

気持ちよくてちょっとせつない、この感じ、なつかしいなと思う。この感じは、若い頃の旅でよく味わっていた気がした。

旅の醍醐味は、間違いなく出会いだと思う。人と出会う。それが後々まで続く関係ではなくても、別に人生を変えるようなインパクトを受ける出会いでなくても、いつも出会わないような人と、ふいに出会い、一夜話し込む。たわいのない話し。でも、それがいつまでも思い出される。

出会いと別れ。それも楽しくもせつないものだ。

だが、もう1つの醍醐味があることを思い出す。それは、旅の空というやつだ。なんでもない、次の目的地へ急いでいるときに、ふいに空を見上げる。同じ空だが、見慣れない空で、ああ、ここは異国なんだな、と思う。俺はひとりで今、見知らぬ外国に、佇んでいるんだな、と不思議な気持ちになる。そこに風がふいたり、教会の鐘でもなろうものなら、もう大変だ。今生きているということを、谷川俊太郎ばりに胸打たれることになるのだ。

この旅の空が、プブリオの音楽にはあった。

もちろん、旅をしていなくたって、日常だって本当はそういう瞬間はあるのだけど、心に残る強度みたいなものが違うのかもしれない。

 

何回も書いていることだけど、あのとき、インドはバラナシの土ぼこりの交差点で、今、僕がここにいることは家族も友人も知らない、昨日宿で一緒だった日本人も知らない。今、ここで僕が拉致されても、誰も探しにこれない、家族も探しに来れない、警察も探せない、きっと迷宮入りするんだろうな。と思った瞬間、強烈な実感に襲われた。そして、ああ自由だ、これが自由ってことなんだ、と心のなかで叫びが聞こえた気がした。

少し怖く、心細く、でも、とてつもない開放感が、一瞬間、通り過ぎた。そして、すぐに、クラクションとつちぼこりと牛とガソリンの臭いに取り囲まれている自分に戻っていた。

数ある記憶の中で、なぜあのエピソードがこれほど強く記憶になっているのか、それは脳の研究的には面白いと思う。

なんとなく、まだズレている。

そうか、あれはあの瞬間にしかない、ということを、まだ書いたことがないのかもしれない。あのときのような”自由”は、あの瞬間にしかなかった。同じような状況が数週間続いていたはずなのに、また、同じような”自由”な状況をその後、ほかの異国で何度か体験したはずなのに、あの自由はあのときにしか感じられなかった。

はじめの1回しか、感じられない、自由なのだろうか。

あのとき、俺のなかで、たとえば脳のニューロンのなかで、海馬のなかで、何か特別なことが起きたのだろうか。

ハラ減ったので、飯いってきます。