奇妙な反転

いわゆる311の地震が起きたとき、オフィスビルにいた。仕事をしていた。グラリとすさまじい揺れがきて、ひさしぶりに死の予感を感じた一瞬があった。これはやばい。そして、とはいえ、東京なのでそこまでの揺れではなく、誰かが冷静にドアを開けにいくのを見ていた。そのとき、心の中に浮かんだことばは、「しまった、忘れていた」だった。僕は神戸の震災も体験していて、大勢の命がなくなってしまうような地震が自分の身にも起こりえるということを知っていた。でも、そのことを、ずっと忘れてしまっていた、というような感じだった。

だからなんだ、ということはないんだけど、なんとなく、いつ死んでもおかしくはないのだ、という緊張感のようなものは、すっかり忘れていた、あるいは、口では言っていても、実感を伴うものになっていなかった、と思ったのだ。

そして、揺れが収まり、誰かがテレビをつけた。津波が地面をのみ込んでいく空撮の映像が淡々と流れていた。なんだこれ? 現実感がなく、ただただ興奮していた。あのなかに何千人もの人が覆われていっていることを、考えればわかるはずなのだが、現実ではないようにしばらくずっとなっていた。

まあ、俺は被災地にも行っていないし、何もしていない。だから、何を言えるのか、というのもあるが、ひとつ、ああ、はっきりしたなあ、と思うのは、本当に何の罪もない人が大勢亡くなったということだ。それまでの行いがよかった人、人を助け、人にやさしくしてきた人も容赦なく波は飲み込んだのだ、ということはわかった。

 

それからしばらくたって、死んだ人は、不幸になったわけじゃない、と思うしかないのだと思うようになった。残された遺族は悲しいし、若くしてなくなった人や、結婚したばかりとか、子供が生まれたばかりとかで亡くなった人はどれほど悔しいか。それはちゃんと考えると胸が張り裂けそうになるくらいだ。だが、それでもやっぱり、死んだ人は、死んだ瞬間から、もう、幸不幸を超えた世界へ行った、と思うしかないような気がしたし、事実、そうなんだろう、という気がする。

本人にとってはすべてがチャラになった。そう思うことは悪いことなのだろうか、いいことなのだろうか。

だから、こういうことだ。生きてるうちは、死んでも死にきれない、という状況はいくらでもあり得ると思う。これをやらずに死ねるか、あの子を残して死ぬなんて、、本当に、悔いの残る死というものは普通にある。むしろ、悔いがまったく残らない死などあるのか、とすら思う。だけど、死んだらやっぱりチャラになるのだと思う。

奇妙な矛盾のように感じる。たとえば、ある知り合い人がいて、死にそうだったら、死んで欲しくないと願う。少しでも長く生きて欲しいと思う。長く生きてというよりは、今、死んで欲しくないと願う。その今は、今、今、今、とずっとつづいていくような今だ。だけど、死んでしまったら、やっぱり、天国で安らかにね、なのだ。

ちょっと何を言っているかわからなくなってきたが、いきなりそこで変わってしまうのだ。だから、死は、悲しいばかりのものじゃない、死ねた、という側面もあるんじゃないか、というような。どんな憎しみや苦しみを抱えていても、抱えているがゆえに死ねず、未来永劫苦しみつづけるのだ、ということにはなっていない、という意味だ。どんななにを抱えていても、いつかは死ねる。そして、おそらく、死んだら、もう苦しみは終わるのだ。

だから、悪いことばかりじゃない、と思えてしまう。だけど、今誰か知り合いが死にそうになっていたり、死にたいと言っていたりすれば、とにかく死なないで、今は死なないで、とやっぱり思う。それは矛盾としか言いようんがないのだが、この矛盾を正す必要があるのか、ないんじゃないか、と思っているというような。そんなような。

で、本題はここからで、こうした、死がどうした、生きるがどうしたというようなことは、はっきりって、ヨタ話だ。酒飲み話だ。本当に考えるべきことは、日々の生活のほうで、とくにこのままではいけない、という状況にいるのなら、状況をどう変えるか、切り開くか、に頭を使うべきなのだ。そこはまるで否定しないし、そうあらねば、と努めているのだが、それでもやっぱり、人に死に接すると、ああ、なにはともあれ、すべてがチャラになるんだな、としか感じられなかったりする。

なんか、まとまらなくなった。どういうトーンの記事になったのかわからないが、なんとなく、いま書きたかったのは、重いことじゃなく、心が軽くなるような方向性だったのだが、たどり着けなかったようだ。眠いので寝る。