ドアは思考である
ある記憶がふっと蘇る。そして、それとゆるやかに連続して、別の、一見無関係の記憶が浮かび上がる。それは思考ではないのか。
昨日、前野 隆司さんの受動意識仮説の講演動画をYouTubeでみていた。とても刺激的な内容だった。意識は意志しない、というような内容だった。意識の前に、脳内の小さな無意識たちが、すでに行動を決定している、それはおそらく民主的に決まるということだった。
無意識が、意識に、これを意識せよ、と司令を出すような感じだろうか。司令というと、無意識に意志があるみたいになってしまうが、そうではなく、無意識はただ、騒ぐだけだ。
その騒ぎを聴きつけるのが意識というわけだ。
だとしたら、今日の昼さがりに、ふいに思い出した、父の葬儀でのひとこま、父の遺体を乗せた霊柩車が火葬場に向かうそのせつなに、父の最後の友人だった人が、父の名前を呼び、ありがとう、と叫んだことを、強めの感情的記憶を伴って思い出したのは、無意識がふいに騒いだということなのだろう。なぜ騒いだのか。それは周囲のなにかに刺激をうけたか、連想を受けたか、ただ、周期的に思い出すことになっているそのタイミングが今日だったのかもしれない。
それなら、これはどうだ。
それにつらなって、小林明子の『恋におちて』が聴きたくなって、YouTubeで探して聴いていたら、このうたをとても上手に謳うことができた、いとこが、子どもの時に、祖母の家に毎年集まって遊んだ、七夕まつりのステージで、歌を歌い上げ、大人たちの喝采を浴びる姿を、それを見ていた角度から、見ている感覚をまるごと思い出したのも、それは無意識が騒いだからなのだろうか。だとしたら、そのつながりは、なんだろう。それは、たまたま、神経細胞のつながりが近いところになって、発火の連鎖を受けただけなのかもしれない。が、もう一つ深いレイヤーにある無意識が、騒いだことを、一段浅いレイヤーの無意識が記憶を使って翻訳したということかもしれないではないか。
それはつまり、思考なのだ、といま、少し翻訳脳がいっぱいになって手が仕事の手が止まっている、駅前のタリーズコーヒーで考えているのだ。記憶のドアを次々と空けて、無意識連合は何かを意識に伝えようとしているのではないか?
いや、その、いくつものドアをくぐり抜けていくことそのものが、無意識連合にとっての思考なのだ、ということを、少し研究してみたいと思ったので、忘れないように書いておくのだ。
意識には時間があるが、無意識には時間がない。それは、いつでも時間を越え、あのときに意識をつれていく。ドアを開ける。
恋の予感は、もう恋が始まっているということ。手遅れだということ。意識は遅れる。少し鈍いのだ。
しかし、と反論が持ち上がる。
やはり、意識の意志というものがあるのではないか、と。
あんたには意志がなかったんだよ、と言われたことがあるからさ。
あるいはそれは、無意識の騒ぎに耳を貸さなかった意識のことを言うのかもしれない。でも、耳を貸さないという意志ではないのか、それは、などと屁理屈が湧いてくる。
死者が残してくれた言葉を、予感としてとらえかえせば、それは未来予測であり、おそらくそれは、細く長く潜伏した、確かな意志と言える。
だから、意志はある。それは予感としてやってくるだけだ。