論考。しまじろうと五味太郎など

愛知の実家に帰ってから唖然とした日々が続いていた。

ずっと家にいるからだろう。なにせ寒いし、とりたてていくところがないのだ。

 

クリスマスに姪っ子にまた絵本でもあげようかと思案していた。

また五味太郎にしようか、などと思う。しかし、どこかで流儀に反するような、いや、反しないような気持ちでいる。

どういうことか?

僕の流儀は、こどもはとりたてて「教育」されるべきではない、というものだ。望ましいのは自分で興味を持って学んでいくことだ。だから、絵本だって、自分が好きなモノを読めばいいのであって、大人たちがこれを読ませよう、などと画策するものではない。とくに道徳的に正しい絵本など最悪だと思っている。気持ち悪い。

だから、基本はこども自身が選べないいんだけど、大人が買って行くとしたら、まあ、自分が楽しいと思うもの、うきうきいい気分になるものを買ってあげればいいんだと思う。

で、僕は五味太郎が好きなので、五味太郎の絵本をあげるのだが、たまに、おれは、五味太郎の絵本よりも、五味太郎の言葉や思想が好きなだけなんじゃないか、って思うときもあるんだ。

絵本も好きなんだけど、いつも手元に置いて眺めていたい、というほどではない。一方、五味太郎の文字の本は、何冊かもってて、精神的につらいときなど、すぐに開いてみたりする。

だから、僕が五味太郎の絵本を姪にあげようとするには、しょせん(俺的に)道徳的に正しい絵本を押し付けようとしているんじゃないか、って思うんだ。

おそらく、50%はそうなのだろう。

どこかで、こう思っている。五味太郎の絵本に幼いころに親しんで、なんとかタフで自由でほがらかに人に育って欲しい、と。そういう効果があるんじゃないかと期待して、五味太郎の絵本を贈っているフシがたしかに、ある。

なにせ五味太郎その人が、自由でラフで楽しげに生きている人に見えるからだ。

だからあやかりたいのだ。あやかってもらいたいのだ。

 

姪っ子は、しまじろうに首ったけだ。ベネッセのキャラクターだ。DVDを持ってて、しまじろうで歯磨きを覚え、しまじろうでダンスを覚えた。とっても楽しそうだし、しまじろうのぬいぐるみは、一時期、それがないと泣き出すくらいに溺愛していた。もうぼろぼろで、いまでもいろんなごっご遊びの一員になっている。

だから、こう思う時もある。なんでおれは、しまじろうより五味太郎に触れさせようとしているのだろうか?と。しまじろうではダメなのか?

しまじろうに、ネガティブな要素はひとつも感じない。すこし「しつけ」に加担しているところがあるが、まあ、でも、たのしく歯磨きやトイレを覚えられるなら、それのどこが悪いのか。

でもどこかで、思ってしまうのだ。五味太郎の絵本の中に、しまじろうにはない、人生の秘密が含まれているんじゃないのか、って。僕はうまく発見できない、特定できないが、そうじゃないのか、そうであってほしい、と思うのだ。

だけど、ちょっとはわかる。五味太郎の絵本を読むと、なんとなく、すっと胸のうちが広がったように感じるときがある。

いま、あの気分を思い出そうとして、そらにそれと似たような気分に、こどもの頃になったような気がして、それはたぶん、世の中が、自分が思っていたよりずっと広く、知らないことで溢れていて、これからそれを知っていくんだ、あのおねえちゃんやおにいちゃんたちみたいに、ってことに気づいた瞬間のことのように思うのだが、まさにあのとき、という瞬間の記憶はついに浮かんでこなかった。

 

今日は長くなる。

僕は自分の前世だと信じている、信じたいある情景があって。それは夢でみたのか、自分で意識的に想像したのか、わからないが、昔のエジプトのことだ。

僕は、少年だった。9歳とか10歳くらい。ナイル川の上流の、小さな村にいた。あるとき、小舟に乗って、下流の街までやってきた。親に連れられていったのかもしれない。ひとりで家出のようにしてやってきたのかもしれない。とにかく、僕は街の市場を目の当たりにして、驚いていた。こんなにたくさんの人、こんなにたくさんの物、この活気、見慣れぬ格好をした異邦人たち。

僕はその騒がしさときらびやかさに圧倒されてながら、もう絶対にここにいよう、と誓う。そんな夢だ。

世界が突然開けた、自分がぜんぜん知らない世界があることを知った、そんな瞬間の夢だ。

 

まあとくにかく、姪には、タフな人になってほしい。KYでもいい、天然でもいいから、素知らぬ顔で口笛吹きながら楽しく生きてたら、なんとなく今こんな感じで楽しくやってるよ、ってな感じで。もちろん、他人とも仲良くして、気の合うパートナーも見つけてほしい。なんてことを虫がよく想像したりする。

大人の世界が結構たいへんな世界だということに、僕はなかなか気がつかなかった。おそらく30代になってからだ。それはもしかすると、日本の景気みたいなものとも連動しているのかもしれない。

 

高齢化社会の問題点は、生産力だけではないはずだ。

高齢者ひとりを4人が支える、3人が支える、2人が支える、そういう問題はもちろんある。年金を受取る高齢者と、そのお金を稼ぎだす働く世代の人口バランス、介護の担い手の問題。

こどもたちが希望なのは、将来の働き手だから、だけではない。

こどもが周りにわらわらいると、明らかに、雰囲気が明るくなる。

こどもは元気だ。希望を持っている。世界を肯定している。全力で生きている。

そういう存在が放つエネルギーに、社会は支えられているのではなかったか。

大人たちは、子どものまっすぐなあっけらかんとしたエネルギーに、ふふふと笑って、明日を生きる活力にしているフシがないだろうか。

子どもたちの世間知らずなところに助けられている心がないだろうか。

少子高齢化が止められないのだとしたら、子どもが体現していたエネルギーをどうやって担保するのだろうか。その財源はどこに?

きっとそれはひとりひとりの中から、へそくりを絞りだすように、出してくるしか、ないんじゃないか、なんてことを言いたい気持ちで、眠れない夜をしめくくろうと思うのだった。