空砲が鳴る夜

一年ぶりに姪っ子に会ってきた。3歳なのだった。ごきげんだった。

こどもというものは、どうしてあんなにごきげんなのだろうか、と思う。

もちろん、怒ったり、泣いたり、わがまま言ったり、ぐずったり、あるけれど、それはすぐに過ぎ去り、一日の大半はごきげんで過ごしている。

ドアを開けると、テーブルにつき、向うをむいて、ご飯を食べていた。ちらっとぼくのほうを見るが、僕の名もよばず、はしゃぎもしない。もくもくとご飯をたべつづける。

だが、うれしそうにしているのはわかる。うれしんでいる。こういう、ひそやかな感情表現をすでに身につけていることに驚く。

照れているのだ。いったい、照れるとはどういう現象なのだろうか。僕はこの時間が好きだったりする。お互いにお互いの存在を認識し、会えたことに喜んでいる。だが、照れている。言葉はうまくかわされないが、空気は共有されている。シーンとした、出会えたという時間が少しずつ流れる。

この後なにが起きるかはわかっている。仲良く遊ぶのだ。だが、その前に、不思議な時間を経過させる。お互いに、お互いをあまり意識していないかのように振る舞いながら、心の芯のところで、ずっととらえている。それは、オートフォーカスのカメラのように、とらえつづけている。

だが、僕は、いつになく早起きをしたせいで、眠くなってしまった。しばし眠った。ごめんね、と思いながらも眠った。めいっこは少し不服そうだった。

でも、これのプロセスの一部であり、眠ることによって、空間になじむことができた。目が覚めたら、遊ぶ体制が整っていた。レジごっこをした。

遊び始めればもうそこは、小さな戦場と化し、つまりは息をつくひまがないほどに、あそばされることになる。5分の休憩も許されない。繰り返し、繰り返し、レジ遊びをする。もう、あの、静かな空間は霧散しており、そこには、楽しさと、かわいさと、めんどくささがないまぜになった、子どもと遊ぶという時間が矢継ぎ早に進行するのだ。

気が付くと、夕方近くになっていた。帰る時間なのだ。

いつになく聞き分けがよくなっている姪っ子の成長に驚きながら、こうやってどんどん大人になっていく。あと何年、こうして俺の訪来を喜んでくれるのだろうか、と思いながら、ハンドルを握った。

次の日は、本屋に歩いていった。品揃えがわるい、田舎の本屋だが、あ!と思う本が目につく。本当は、保坂和志の新刊を買おうと思っていたのだが、それはなかった。かわりに、椎名誠の新刊が目に入った。新潮新書「ぼくは眠れない」だ。

 

椎名誠不眠症ぎみであることは知っていた。以前、講演会で話していたのを聴いた。

そうか、椎名さんでもか、とちょっとほっとした。なぜなら、僕も不眠気味であるからだ。この不眠気味というのは、やっかいで、よく、運動すれば治る、とか言うけど、バリ島に居る時、ぼくは毎日のようにサーフィンをしていたが、やっぱり、不眠気味の波は確実におそってくるのだった。だから、別に夜になにもしていないのに徹夜明けでサーフィンに行ったりしていた。ただ眠れなかっただけだ。徹夜明けのサーフィンはこたえた。いったいなにをやっているんだろう、と思いながらも、体(脳)って不思議だな、って思っていた。

 

椎名さんも、35年間、うまく眠れないという。睡眠薬を使っているそうだ。椎名さんも、毎日運動していることで有名だ。毎日、腕立て、腹筋、スクワットをかなりの回数やっていると聴いた。だから、単純なことではないのだ。と、ぼくはそう思いたい。

 

僕はまだ睡眠薬は飲んでいない。逆に言えばそこまで深刻じゃないということかもしれないが、やはり、依存するにが恐いのかもしれない。でも、毎晩、今日は眠れるだろうか、などと一喜一憂しているよりは、さっと薬を飲んでしまったほうが、いろいろ捗るのかもしれない。ただ、きっかけをつかめずにいる。

 

そして、坂口恭平の「現実脱出論」を読む。この人は躁鬱病らしい。それを知ってから、がぜん好きになってきた。

自分をコントロールできない人が、必死に自己をとらえようともがき、躁鬱を創造のエネルギーに変えていこうとあがいている。そういう風に見える。もちろん、そんな病気関係なしに、坂口さんはぶっとんだ面白い人であり、とても頭がいい人であるのは変わらないのだが。

なんだか、人間という生き物の、不条理さ、不思議さ、を体現しているような人だな、と思って、安心感を覚えるのだ。

そして、とても大切なものを提示しているように見える。彼の言葉で言えば、

 

<blockquote>

言葉にできない赤子が、それでも必死に伝えようとしているもの。

かつ、歳を重ねた人間が感じているのに忘れたふりをしているもの。

</blockquote>

 

また、こうとも言っている。

<blockquote>

すべての人が実はまだ忘れていないこと。

気づかないふりをしているだけで本当は口に出したいこと。

手をただ差し伸べ、触れること。

見えないものに包まれているおかげで僕たちが生きているということ。

</blockquote>

 

いま、どこから、ドン、ドン、という遠い音が聴こえていた。

となりの家の人が暴れているのか、と一瞬思う。それにしては定期的な音だ。

よくわからないなと思っていたら、花火の空砲の音に似ているなと思う。

花火大会の、一時間くらい前から聴こえてくる、ボカン、ボカン、という空砲だ。

あれは、もうすぐ花火ですよ、というのを伝える役割もあると聴く。

あの、空砲が聴こえてくるときの、期待感。それを思い出したら、急に淡い気持ちになった。

耳を澄ませは、空砲が鳴っているのかもしれない。それは、幼いころ、楽しみすぎて、むしろ行くのが嫌になりそうだった、夏祭りであったり、あまりの緊迫感に、家から逃げ出してしまった、はじめてバレンタインのチョコをもった女の子が家にくる日だったり、するのだろうか。それは、空砲が鳴っているのだろうか。