政治の言葉のつづき

国際社会は建前で溢れている。

わかりやすいのが、核拡散防止条約核兵器の拡散を防ぐというが、核兵器を持っている国が、持っていない国に対して、「お前は持つな、俺は持つけどな」というのは、筋が通らない。でも、やっているのはそういうことだろう。

これは子どもに説明できない。結局、軍事力、経済力などで、力を持っている国が、自分たちの都合のいいようにやっている、というところに行き着いてしまう。子どもからそう問われたら、そうじゃない、とは言えない。なにか国際政治的な力学や、そう簡単には物事はいかないんだよ、もっと複雑なんだ、などとは言えるが、でも、苦しい弁解にしか自分でも聞こえない。やっぱり、強い国が力のものを言わせている、それが国際社会の現実だろう(もちろん昔よりはずっとマイルドだが)。

 

で、そういう風には国会ではなかなか議論できないところがあるように思う。例えば国会で、「核拡散防止条約というのは強国のエゴであるのは明白だが、その中で日本はどう立ち回るべきなのか」みたいな議論だ。中国あたりのことなら言えるだろうが、アメリカをエゴ国家呼ばわりして、それを与野党の「共通認識」にすることは難しそうだ。でも、共通認識がないと、何も議論が始まらないというのは、前回話したとおりだ。そこで共通できないなら、その問題自体を議論しなければならない。強国は核を持ち、それ以外は持たないべきなのだ、それが妥当なのだ、という共通理解に到達するまで議論すべきだということだ。

そこをうやむやにして、日本がどうすべきかを議論しようとしても、とんちんかんな議論になるだろう。

安保法制もそういう部分があるだろう。たとえば、イラク戦争は妥当な戦争であったのか。アメリカ的には、アメリカの自衛の戦争であったわけだが、日本政府もそれを追認したわけであるが、それは国会の共通認識ではないだろう。ならば、そこをもっとじっと議論し続けなければならないではないか。

そこをうやむやにしたうえで、自衛と侵略の言葉を使い分けることは意味がない。

もし、それはもう決着している、日本としては、イラク戦争はアメリカの自衛戦争だと考えている。とするなら、自衛戦争の幅はかなり広い、ほぼ、なんでもありだということになる。

ならば、自衛戦争の中でも、日本として、日本国憲法として、ゆるされる戦争、ゆるされない戦争がある、という議論に進むべきだろう。

まだ集団的自衛権の話はしていない。これは個別的自衛権の話だ。つまり、個別的自衛権の中にも、許されない戦争があるはずだ、といううことだ。

だが、これまでの国会の議論では、「日本の」個別的自衛権では、おそらく、対イラク戦争はできないという共通理解があるように思えるが、どうだろうか。アメリカの個別的自衛権は、イラク戦が可能なのだ。

なので、ひとくちに「個別的自衛権」と言っても、国によって想定している範囲が違うようだ、ということがわかる。でも、そのへんは国会で議論されていないようだ。

難しいね。同じ言葉なのに場合によって内容が違うようなのだ。

くれぐれも言うが、まだ集団的自衛権の話はしていない。個別的自衛権だけでも、こういう状況だ。

このように、言葉の定義が与野党で違うようだ、というところも散見される。言葉の定義が違えば、議論が噛み合うはずはないのだ。

で、言葉の定義を一致させようとすると、それだけで、一回分の国会を使ってしまうほどの議論が必要となるだろう。

だから、与野党はやっぱり、空中戦をやることになるのだ。

 

外国の国会はどうなんだろうか?ちゃんと議論が噛み合っているのだろうか。おそらく、アメリカあたりは国会にタブーがほとんどないんじゃないかと思う。公文書もばんばん公開する国だ。どうなのだろう。

だから、国会をきちんと機能させるために、タブーをとっぱらっていく作業が必要になるだろう。そのほとんどは対米関係のものだと思われる。そこから丁寧にやってくれる首相が現れたときに、日本は対米自立を果たし、ついには、責任ある国際社会の一員になれるのだと思われる。

 

はあ、政治の話はやっぱ難しい。