そっちでもいい

毎度のごとく、吉福さんの話をしよう。やっぱり面白いからだ。

ハワイの家を尋ね、インタビューにいったときの一幕が最近、繰り返し思い起こされるからだ。

文脈はすっとばして書いてみると、ぼくが、魂というものがある気がする、と訴える場面だ。言い方はこうだ。ぼくはいま、現代社会、現代日本、社会、世間、そういうものに違和感を抱いている。何かおかいしと思っている。だが、そう考えている自分も、社会にプログラムされてきたはずだ。それは親の影響、学校教育、広く世間一般からの影響、そういうもろもろで、右も左もわからない赤ん坊のときから、世の中とはこういうものだよ、生きるとはこういうものだよ、と、言葉でも、言外でも、教えられてきた。それなら、それを鵜呑みにして生きていけば、なんの矛盾も感じないはずだ。いいか悪いかは別にして、ただ順応して生きればいい。

だがぼくは現に違和感を感じている。ということは、社会のプログラムに左右されない、芯のようなもの、生まれ持っての判断、感性、すなわち魂のようなものがあるのではないか? その魂が、この狂った現代社会に異議を唱えているのではないか?

と、そういうようなことをぼくは言った。

だから、ぼくはこの自分の無垢な魂を肯定し、信頼して、社会と対峙して生きていくべきなんだ、という結論にぼくはもっていきたかったはずだ。

だが、吉福さんは、こう言った。「それはまったくまぬけな見方だね」

ほう。

吉福さんは言う。社会は矛盾を含んだままあなたをプログラムしたのだ、と。

だから、ぼくは矛盾を抱えた存在としているのだと。

そのとき、ぼくの起きたこと。それは、痛快。

不思議なものだが、自分の信念のようなものを、あたまごなしに否定されのだが、その刹那、ぼくはおそらく、こんなようなことを考えた。「なんか、そんな感じだと思ってた」

うそなのだが、ぼくはそのように自分のことを考えたことなどなかったのだが、あっというまに納得してしまったばかりか、むしろ、そっちであってほしかったと前から思っていたかのように振る舞った。振る舞ったというか、本当にそう思った。

どっちがよかったのだろうか。

魂があるんだよ、きみの純粋な魂が悲鳴をあげているんだよ、でも君の魂のほうが正しいのだから、がんばりなさい、と言われるのと、あんたが矛盾ごとプログラムされただけだよ、と言われるのと。

だけだよ、ではない。そんな紋切型の話ではなく、そういう風にみたほうが実態に近いだろう、ということだ。

細かい話はいい。だけど、面白いよね。この変わり身の速さ。自分の。

そして、この胸がすくような感覚はなに?

 

最近、耳の上辺りに白髪が目立つようになってきた。だから染めている。このとき、負い目のようなものを感じる。イチローは白髪を染めていないからだ。この年齢で白髪は自然なことなのだろう。だが、ぼくは、やっぱり染めてしまう。まだもてたいからだ。独身だし、もてる必要があるのだ。と言い訳しているが、そうか、おれはありのままの自分は恥ずかしくて見せないつもりなんだ、という気持ちが、あのころから意識するようになっている。

生物としておそらく自然なことである白髪も見せられないのに、ありのままの自分、とか、そういうこと言うのはもうやめにしないとな、と思うんだ。

とかいいながら、外見をよく見せようとすることなら、昔からさんざんやってきたじゃないか、何をいまさら、という声も聞こえた。

 

さて、脱線したが、本線がどこにあるのかわからない。

痛快だ。今日のキーワードは痛快だと思うんだが、思えば変わった言葉だね。

 

いわゆるゆとり世代の人達がいる。はっきりいってぼくはうらやましい。よく、会社で使えないとか、常識がないとか言われているが、おおらかで自己肯定感をもっていて、ものおじしない。これってみんながなりたい人だよね? もし、ゆとり世代が世間で揶揄されているとおりの気配をまとった人たちなのだとしたら、ゆとり教育は成功したんだと言わざるをえない。ぼくはゆとり教育、受けたかった。ゆとりのある性格になりたかった。きっと、そのほうが生き抜いていきやすいはずなんだから。なんとかなっちゃうんだから。

 

ということで、今日はお墓参りに行ってきました。ずいぶん久しぶりに。バチあたりです。

 

最近、将棋にはまってます。ネット対戦が面白すぎて。あれはいかんね。中毒性がある。早く伊藤かりんに追いつきたい。1級だったかな。すごい強いよそれは。将棋の面白さは、ぼくはほとんど手を読まないんだけど、読めないんだけど、なんとなくいけそうだと感じて、飛車とか角の大駒を切って、攻め込んでいくときの、あのドキドキはたまらないね。跳ね返されることも多いけど、そのまま押し切って勝てたときの快感といったら! 将棋ウォーズ、挑戦受け付けます。