ゆっくり思い出す

最近どうも自分のなかで「M」ブームのようで、いろんな人がカバーするMを聴いていた。いいなあ、と感じ入るのだが、やっぱり、オリジナルに戻ってくる。プリプリの。おそらく、それが僕の青春時代とつながっているからに違いないのだが、もう少し内容を吟味してみると、ボーカルの歌い方のある特徴に気付く。奥居香の歌い方は、感情がこもっているんだが、こもっていないんだが、よくわからない、ということだ。

歌いあげている。だが、湿り気がない。あんなに歌い上げているのに、歌い上げやがって、とは思わない。不思議な物語を聞かされているような気分になる。ある日、あるとき、どこかの国で、こんなことがあったのよ。とでもいうような。

Mを聴いて今思い出すのは、恋愛の数々ではない。思い出になりそこねていた思い出などが、ぽつり、ぽつりと浮かんでくる。

それは、ささいなことだから、忘れていたということではない。それは、ふだんの自分からは想定できない行動をとり、どちらかといえば、早く忘れてしまいたい記憶のなかの、非常に事務的な手続きのなかの、テーマをはずれた部分で受けたインパクトの、必死すぎて判断の余地がなかったときに、じぶんが何を選択したかという記憶だったりする。

自分は自分が思っているような自分ではなかった、とき、やってくるのは失望ばかりではない。安心だったりするのだ。

思わせぶりな書き方で申し訳ないのだが、いささか恥ずかしいことなので、誰にでも人生で1回くらいはある、本当にどうしていいかわからなくなったとき、ぐらいに各自が読み替えてくれたまえ、と思う次第だ。

いや、本題は、ぽつり、ぽつりと何かを思い出すって、なんだ?ということだ。

いや、やっぱり、それが思い出されるときに何が起きたのか、のほうだ。

 

人生で、何度も思い出されることよりも、はじめて思い出されるほうを僕は信じる。

とでも宣言しておこう。何度も繰り返す感情よりも、はじめて感じる感情的情景を信じる、と言い換えてもいいだろう。

そう言いながら、まったく同じMのPVを繰り返し繰り返し聞いているのは矛盾なのだろうか。

いま、かわいらしい店員がやってきて、何かを言った。僕は大音量でMを聴いているから、口がぱくぱく言っていることしか見えていなのだが、水を替えてくれたから、お水を交換いたしましょうか、とかだと思う。だから、ありがとう、と小さく言っておくが、その声も自分に届かなかったので、その、ささやかな笑顔だけが脳裏に残った。いい気分だ。

長岡望悠はあんな憂いをたたえた顔から、あんなに強烈なスパイクを打つ。そのことに胸打たれていたことを、なんとなく思い出す。