紋切型はつまらないのか

昨日、何かのついでで自分のブログを一年分くらい読んでみた。すると、面白いことに気づいた。あとから読んで、お、こんなこと書いてたのかなかなか面白いじゃないか、と思う記事と、あ、これを書いたときの感動は覚えているけど今読むと面白くないね、という記事があることだ。

面白くない記事は、おおむね、海外で誰かに出会って、そのひとをステレオタイプにとらえて書いている記事だ。どれがと言うのはやめるが、たいていは、すごい人に出会った、すごくいい人に会って感動した、すごくかわいそうな人に出会ってせつなくなった、みたいなことを書いている記事が。そういうものは大半がクソだ。そう思ってくれていい。クソとは言いすぎだが、今自分で読み返すと、なんにもわかってなかったんだなあ、と思うか、まあちょっときれいごとにしすぎたかな、という感想になるのだ。

違う言い方でいうと、その人のことをあまり知らないときに、適当なことを書いているのだ。適当に感動して、適当に書いた。

そして、あとあとになって、ああ、人って簡単じゃないな、いろいろな面があるんだな、と当たり前のことに気づいたとき、なかなか書きづらくなって、その人については書かなくなる、みたいなことなのだ。つまらないことだ。申し訳ないとさえ思える。

まあ考えればわかるが諸君だって、諸君がよく知っている人について書くのははばかられるだろう?たとえば親兄弟、配偶者、恋人などについてだ。それも長年連れ添ったやつに限れば。

というようなことを改めて思っていた。まあ、なかには、あれから一年経ったがそのときの印象は変わっていない、という相手もいる。それはもしかすると、まだあまり仲良くなってない、というだけなのかもしれない。

まあどうでもいいことだった。

でもね、これはほかのことにも当てはまるんだと思うよ。

人はやっぱ、聞こえのいいことを語りたがるし、書きたがるし、聞きたがるものだ。

だから、インターネットにあふれる、成功者の成功談とか、俺やこう考えている、みたいなのは6割5分くらいで聞いておいて、そういうけどホントはもっとグチャグチャなんでしょ?くらいに思っていたほうがいいし、でもそのなかから、参考になる部分を切り取ってくればいいんだと思う。紋切型に感動したり、憧れたり、尊敬したり、レスペクトしないほうがいいんじゃないかと思うんだ。

愛憎の気持ちがわいたとき、はじめてその人の近くに近寄れたということだと思うし、愛憎の気持ちのなかから何かを学んでこれるとしたら、それはけっこうパワーのある学びになるんじゃないかと思うね。

とかいってね。

感動って意外とつまらないことなのかもしれないね。いや、つまらない感動もあるってことなのかな。

いや、ふだん俺らが感動と呼んでいるものの大半は、ただ、対象をよく知らずに都合よく解釈しちゃったよ、というだけのことなのかもしれない。

おそらく本当の感動は、言葉にならないものだから、感動したとか言えちゃう時点でそれは感動じゃない気がする。

ちょっと感動のハードルを上げすぎた気もする。

友人夫婦に赤ちゃんが生まれた。涙がこぼれたという。それは間違いなく感動だと思うよ。それはさすがに。友人は困惑も覚えたという。困ったと思ったという。おう、まさにそれは感動なんじゃないか、と思う。

暑い日が続いている。知らないうちに夏バテしているようで、昼間とか意識がもうろうとしている。

ということで、とりあえず、俺が何かを感動したふうに書いていたら、それはその場の適当な勘違いで適当なことを言ってるだけだから、また言ってるな、くらいで流してほしい。それを一緒になって、プチ感動とかしてほしくない。そうやって安い感動が流布されていくことが悔しいという気持ちがあるようだ。なんだかわからないが。

そう、安い感動は、僕達を鼓舞するようでいて、その実、意気消沈させるもののような気がしているからだ。それはなぜか人を孤独にする。ちがうだろうか。Facebookでいいねをする自分、いいねをされる自分を元気づけてはくれるが、夜、寝る前、ふとした瞬間に、あれ、なんだかなーと思っている自分にはあんまりいいものを与えてくれない。

とはいえ、そんな夜の自分はあんまり顔を出してほしくないのも事実だし、でも、ふとした瞬間に本当に大事なのはこっちなんじゃないか、と思うのも事実だ。

だが、もうやめよう、今俺がどっちの自分かは、言うまでもないだろうから。