これからアノ夏に入っていく

お昼すぎに姪が家に遊びにきた。いつも車の中で寝てくるので、着いたときにはまだボーっとしている。2才児がどのくらいぼーっとするかといえば、それは少し信じがたいくらいだ。大大大好きなバーバ(つまり彼女の祖母)の顔を見ても何ら反応を示さないほどぼーっとしている。家をでる前に、バーバの家に行くということは聞かされているし、いま着いたこの場所がバーバの家だということはしっかり理解できる年齢だ。にもかかわらず、数分、ときには数十分もの間、ここはどこ?私はだれ?みたいな状態を保つ。これがこどもなのか。どんだけフレッシュな生き物なのかと驚きを隠すことができない。

ただ寝ぼけているだけなのだが。あまりにフレッシュな寝ぼけなのだ。

しかし今回は、車の中で寝ていなかったようで、しっかりとした眼で、やっと着いたか、という眼差しを送っていた。出迎えに出たぼくはどさくさにまぎれて抱っこした。やわらかかった。

家につくとさっそくお昼ごはんになった。小さく切った桃と、干しぶどうの入ったパンを食べるのだ。まだどこかぼーっとしながら、パクパクとたべている。ときおり、どこかともなく遠い遠い眼差しを送っている。寝ぼけているわけではない。でもボーーっとしている。半分、夢の世界にいるようだ。寝起きでもないというのに。

そんな姪っ子を見ていたら、うらやしさがこみ上げた。ああ、この子は、まだこれからアノ夏に入っていくんだなあ。

アノ夏とは、たまに記憶の中によみがえる、幼少期に見た夏の風景のことだ。風景というか、全身で体感していた夏のことだ。あのころ、気がつけば夏にいた。夏がやってくる、夏休みがなってくる、そうしたワクワク感を感じ始める。でも、次の瞬間、気づけば夏のまっただ中にいるのだ。セミがジーワジーワと鳴いている。音の包囲網だ。入道雲がこれでもかと威圧的な威容を見せる。もくもくと巨大、そして白い。僕はゴザの上に座って、麦茶のグラスがカランと音をたてるのに気付く。氷が溶けていく。グラスはびっしょりと汗をかいている。いまからこれを飲み干すのだ。自分も汗をびっしょりかいている。扇風機が回っている。夏だ夏だ、夏なのだ。夏のまっただ中に放り出されているのだ。もう頭回んない。僕は遊びの約束だけをかろうじて覚えていて、虫かごと網を持ってかけ出していくのだ。

そんな、夏のファンタジーの世界へ、この子はこれから行くのだ。夏だけじゃない春のファンタジーもあるし、冬のファンタジーもある。きっと秋だってあったのだろう。この子はまだこれからなのだ。僕が遠く懐かしむ、あの体感世界へ、これから入っていくのだ。ああ、僕も連れっておくれよ、あの世界へ。などと思いながら見つめていたら、あっちへいってくれ的な眼で見据えられてしまった。食事の邪魔をしていたようだ。

知人が言った言葉を思い出す。「わたしはいつも頭のどっかでさめているからね」テレビでは神輿祭のニュースが流れていた。男たちが喧嘩のように大声をはりあげて神輿をかついでいる。「わたしはあんな風になったことないでね。いつもこのへんでさめた眼でみてるでね」と、右手で後頭部よりの頭頂部をコリコリとした。

二歳児にはさめた意識はまだないのだろう。どこかでいつも冷めた眼でみているあの意識は。いや、ちがう、あるのかもしれない。だからあんなにぼーっとしているのかもしれない。全身がさめた意識でおおわれている。さめすぎていて現実感がつかめないでいる。僕の名前を呼びながら、知らない人をみるような眼で、ときおり見る。

かつて、吉福さんが、印象の河という話をしていた。人は生きていくなかで印象をため続けるという。それは、スナップ写真を撮っていくようなものだという。一瞬一瞬をスナップして、印象の写真としてフィルムにおさめていく。

姪っ子は、今の僕との交流はすっかり忘れてしまうだろう。それが意識というものだ。でも、印象のフィルムにはしっかりと収められたはずだ。それは決してなくならない。そしてそれは川の流れとなって静かに流れだしている。小さく合流していく。

かもしれない。

さて、現実の世界に戻ろう。熱い熱い現実の世界だ。そこは気がつけば高校生たちに囲まれてしまっていた。Mcdnaldだ。