超進化論
NHKで超進化論という番組を見た。
樹木が、地下で菌糸のネットワークで繋がっていて、栄養を分け与えあっている、ことがわかってきた、というような内容だった。
以前、同じことを本で読んだ記憶があるが、改めて衝撃的な発見だと思った。
樹木が根っこ同士でつながって、栄養を与え合う、というのなら、まだわかる気がする。しかし、根と根が離れていても、それを菌類が媒介して、栄養を伝達するというのだ。しかも、栄養を与える樹木は、同じ種とはかぎらないということなのだ。杉がヒノキに栄養を与えることもあるということだ。
まるで樹木に意思があるみたいだし、とても他人(樹木)に優しく互助的だ。驚く。
まるで、アナーキズムを地でいくような感じだ。森は中央政府なしで互助的に支え合って成り立っているのだとしたら。日光や栄養をめぐって過酷な生存競争が繰り広げられているわけではないのだとしたら。
これは兆候ではないだろうか。次世代が始まっているのだ。
次世代が始まる時、我々は、次世代の礎となるマインドセットを、自然の中に科学的に事実として「発見」するのだと思う。
前世代のマインドセットが「競争」だとしたら、次世代は「助け合い」あるいは、もっと違う概念、まだ言葉がつくられていないような概念なのかもしれない。
友人の子どもと遊んでいるとき、こどもは本当にごっこあそびが好きなのだなあと思っていた。おんぶしてほしいというからおんぶすると、「バブバブ」と言い始めた。どう声をかけても「バブ」としか返事をしない。赤ちゃんになってしまったのだ。赤ちゃんごっこだ。
それでしばらくバブバブ言っていると思ったら、こんどは高いところに登って踊りだして、写真を撮れ、と言う。手で写真を撮る真似をすると、スマホを持ってこいと言う。そこはごっこじゃないのかい!と思いながら、スマホを撮ってくると、とびはなて踊りながら歌って、写真を撮れと命じるのだった。これはアイドルごっこかなにかだろう。
常に、なにかのごっこをしている。そして、それに周囲を巻き込もうとする。
もしかしたら、これは、ごっこじゃないのかもしれない、という考えが浮かんだのだった。
というよりも、僕たち大人が考えるように、ごっこと現実が別れていないのかもしれない。というよりも、僕たち大人も常にごっこ遊びをしていると言っても、あながちはずれていないのかもしれない。
僕たちはごっこ遊びをして、他人を巻き込んで、おなじごっこをしてもらおうとする。しようとする。共同幻想という言葉がかつて流行ったそうだが、ごっこ遊びは蜜の味がするのだ。甘い、甘い、心地よい時間。守られた、自分たちだけの、親密で濃密な、生の体験なのだ。
僕たちはきっと生きるということの意味の壮大さにやりきれなくなって、ごっこをするのだ。ごっこで、いっときのサンクチュアリを作り出して。
追い出されない楽園。追い出される前に次の楽園をこしらえて。
ごっこはひとりでもできる。子どもはよく一人遊びをする。僕もした。
だが、誰かを巻き込んだごっこ遊びは、一人遊びとは違った喜びがあるのは、誰しもが知るところだろう。
「ごっこ遊び」を調べてみたら、ごっこ遊びは子どもが社会性を身につけるために大切な遊びです、と書いてあった。
それはそうだろう。だが、それだけではないはずだ。
ごっこ遊びは、それそのものが目的なのだ。その副産物として、社会性が身につくこともあるのだ。
ごっこ遊びは、目の前にいるほかの生命と、つながるという体験を求めるということなのだ。きっと。
僕はいまボイストレーニングに通っている。まだ延べで半年くらいだが、少しだけ進歩が見えてきて、今日などは、自分では決してありえないと思われた、ひとりカラオケを敢行してしまった。
僕は歌がうまくない。小学生くらいからそう意識していた。まず大きな声が出ない。高い声も低い声も出ない。
だからカラオケはめったに行かない。みんなで騒ぎにいくときだけしぶしぶいくだ。
でもあるときふと、僕の声って、これで終わりなのかな?この先はないのかな?と疑問が湧いた。思えば、声の出し方って教えてもらった記憶ない。音楽の授業でも習わなかった。なんなら、自分が地声だと思っている声って本当に地声なのだろうか?という疑問がわいた。あるときに、声の出し方をひとつ覚えて、ずっとそれをやってきただけなんじゃないだろうか。
もちろん、歌がうまくなりたい。そういうことなのだが、歌が思うように歌えたら、それって「自由」だなあ!って思うんです。
で、いまのところまだ飽きずに通ってるわけであるが、プロになるわけじゃなし、ライブの予定があるわけじゃなし、声の仕事をしているわけでもない僕に、ボイトレの講師は、真剣に教えてくれるんです。そのことが、不思議であり、なにやら助かっているんです。
意味がないんです。社会的には。言ってしまえば。僕が歌を少しばかり歌えるようになったって。お金の無駄だし、時間の無駄なんです。社会に価値をもたらさないのです。僕が少し声が出せるようになっても。
そんなことに、大の大人ふたりが、月に2回、1時間、わりと真面目に時間を使っているわけです。
これは何なのだろうと我ながら思うんです。なんでこんなことやっているんだろう。
人に聞かれれば、歌手になりたくて、とか、言っていますが、それは、自分でもなぜやっているかわからないからです。
おそらく、歌がうまくなった未来に意味があるんじゃなくて、今、声を出せるようになろうとあくせくしているこの時間に意味があるんです。そこにしか意味がないのかもしれない。もっと言えば、社会的に価値がないからこそ意味があるとさえ言っていいきがするのです。
得意なことを伸ばせば、仕事になるかもしれない。お金が稼げるかもしれない。人から褒められるかもしれない。人気ものになれるかもしれない。そしてなにより社会に価値をもたらすことができる。
それがそれでいいし、そうやって得意なことを持ち寄ってこの社会は成り立っていて、お互いに助け合って生きているわけです。そうだからこそ、今の暮らしができている。素晴らしいことだと思う。
得意じゃないこと、むしろ苦手なことを、自己満足のためだけに、取り組む。そして、それを誰かが支えたり、励ましたり、見守ったりする。
そのことの意味は意外と小さくないのではないか、というのが、今ボクが考えていることです。
超進化論
NHKで超進化論という番組を見た。
樹木が、地下で菌糸のネットワークで繋がっていて、栄養を分け与えあっている、ことがわかってきた、というような内容だった。
以前、同じことを本で読んだ記憶があるが、改めて衝撃的な発見だと思った。
樹木が根っこ同士でつながって、栄養を与え合う、というのなら、まだわかる気がする。しかし、根と根が離れていても、それを菌類が媒介して、栄養を伝達するというのだ。しかも、栄養を与える樹木は、同じ種とはかぎらないということなのだ。杉がヒノキに栄養を与えることもあるということだ。
まるで樹木に意思があるみたいだし、とても他人(樹木)に優しく互助的だ。驚く。
まるで、アナーキズムを地でいくような感じだ。森は中央政府なしで互助的に支え合って成り立っているのだとしたら。日光や栄養をめぐって過酷な生存競争が繰り広げられているわけではないのだとしたら。
これは兆候ではないだろうか。次世代が始まっているのだ。
次世代が始まる時、我々は、次世代の礎となるマインドセットを、自然の中に科学的に事実として「発見」するのだと思う。
前世代のマインドセットが「競争」だとしたら、次世代は「助け合い」あるいは、もっと違う概念、まだ言葉がつくられていないような概念なのかもしれない。
友人の子どもと遊んでいるとき、こどもは本当にごっこあそびが好きなのだなあと思っていた。おんぶしてほしいというからおんぶすると、「バブバブ」と言い始めた。どう声をかけても「バブ」としか返事をしない。赤ちゃんになってしまったのだ。赤ちゃんごっこだ。
それでしばらくバブバブ言っていると思ったら、こんどは高いところに登って踊りだして、写真を撮れ、と言う。手で写真を撮る真似をすると、スマホを持ってこいと言う。そこはごっこじゃないのかい!と思いながら、スマホを撮ってくると、とびはなて踊りながら歌って、写真を撮れと命じるのだった。これはアイドルごっこかなにかだろう。
常に、なにかのごっこをしている。そして、それに周囲を巻き込もうとする。
もしかしたら、これは、ごっこじゃないのかもしれない、という考えが浮かんだのだった。
というよりも、僕たち大人が考えるように、ごっこと現実が別れていないのかもしれない。というよりも、僕たち大人も常にごっこ遊びをしていると言っても、あながちはずれていないのかもしれない。
僕たちはごっこ遊びをして、他人を巻き込んで、おなじごっこをしてもらおうとする。しようとする。共同幻想という言葉がかつて流行ったそうだが、ごっこ遊びは蜜の味がするのだ。甘い、甘い、心地よい時間。守られた、自分たちだけの、親密で濃密な、生の体験なのだ。
僕たちはきっと生きるということの意味の壮大さにやりきれなくなって、ごっこをするのだ。ごっこで、いっときのサンクチュアリを作り出して。
追い出されない楽園。追い出される前に次の楽園をこしらえて。
ごっこはひとりでもできる。子どもはよく一人遊びをする。僕もした。
だが、誰かを巻き込んだごっこ遊びは、一人遊びとは違った喜びがあるのは、誰しもが知るところだろう。
「ごっこ遊び」を調べてみたら、ごっこ遊びは子どもが社会性を身につけるために大切な遊びです、と書いてあった。
それはどうだろう。だが、それだけではないはずだ。
ごっこ遊びは、それそのものが目的なのだ。その副産物として、社会性が身につくこともあるのだ。
ごっこ遊びは、目の前にいるほかの生命と、つながるという体験を求めるということなのだ。きっと。
僕はいまボイストレーニングに通っている。まだ延べで半年くらいだが、少しだけ進歩が見えてきて、今日などは、自分では決してありえないと思われた、ひとりカラオケを敢行してしまった。
僕は歌がうまくない。小学生くらいからそう意識していた。まず大きな声が出ない。高い声も低い声も出ない。
だからカラオケはめったに行かない。みんなで騒ぎにいくときだけしぶしぶいくだ。
でもあるときふと、僕の声って、これで終わりなのかな?この先はないのかな?と疑問が湧いた。思えば、声の出し方って教えてもらった記憶ない。音楽の授業でも習わなかった。なんなら、自分が地声だと思っている声って本当に地声なのだろうか?という疑問がわいた。あるときに、声の出し方をひとつ覚えて、ずっとそれをやってきただけなんじゃないだろうか。
もちろん、歌がうまくなりたい。そういうことなのだが、歌が思うように歌えたら、それって「自由」だなあ!って思うんです。
で、いまのところまだ飽きずに通ってるわけであるが、プロになるわけじゃなし、ライブの予定があるわけじゃなし、声の仕事をしているわけでもない僕に、ボイトレの講師は、真剣に教えてくれるんです。そのことが、不思議であり、なにやら助かっているんです。
意味がないんです。社会的には。言ってしまえば。僕が歌を少しばかり歌えるようになったって。お金の無駄だし、時間の無駄なんです。社会に価値をもたらさないのです。僕が少し声が出せるようになっても。
そんなことに、大の大人ふたりが、月に2回、1時間、わりと真面目に時間を使っているわけです。
これは何なのだろうと我ながら思うんです。なんでこんなことやっているんだろう。
人に聞かれれば、歌手になりたくて、とか、言っていますが、それは、自分でもなぜやっているかわからないからです。
おそらく、歌がうまくなった未来に意味があるんじゃなくて、今、声を出せるようになろうとあくせくしているこの時間に意味があるんです。そこにしか意味がないのかもしれない。もっと言えば、社会的に価値がないからこそ意味があるとさえ言っていいきがするのです。
得意なことを伸ばせば、仕事になるかもしれない。お金が稼げるかもしれない。人から褒められるかもしれない。人気ものになれるかもしれない。そしてなにより社会に価値をもたらすことができる。
それがそれでいいし、そうやって得意なことを持ち寄ってこの社会は成り立っていて、お互いに助け合って生きているわけです。そうだからこそ、今の暮らしができている。素晴らしいことだと思う。
得意じゃないこと、むしろ苦手なことを、自己満足のためだけに、取り組む。そして、それを誰かが支えたり、励ましたり、見守ったりする。
そのことの意味は意外と小さくないのではないか、というのが、今ボクが考えていることです。
超進化論
NHKで超進化論という番組を見た。
樹木が、地下で菌糸のネットワークで繋がっていて、栄養を分け与えあっている、ことがわかってきた、というような内容だった。
以前、同じことを本で読んだ記憶があるが、改めて衝撃的な発見だと思った。
樹木が根っこ同士でつながって、栄養を与え合う、というのなら、まだわかる気がする。しかし、根と根が離れていても、それを菌類が媒介して、栄養を伝達するというのだ。しかも、栄養を与える樹木は、同じ種とはかぎらないということなのだ。杉がヒノキに栄養を与えることもあるということだ。
まるで樹木に意思があるみたいだし、とても他人(樹木)に優しく互助的だ。驚く。
まるで、アナーキズムを地でいくような感じだ。森は中央政府なしで互助的に支え合って成り立っているのだとしたら。日光や栄養をめぐって過酷な生存競争が繰り広げられているわけではないのだとしたら。
これは兆候ではないだろうか。次世代が始まっているのだ。
次世代が始まる時、我々は、次世代の礎となるマインドセットを、自然の中に科学的に事実として「発見」するのだと思う。
全世代のマインドセットが「競争」だとしたら、次世代は「助け合い」あるいは、もっと違う概念、まだ言葉がつくられていないような概念なのかもしれない。
友人の子どもと遊んでいるとき、こどもは本当にごっこあそびが好きなのだなあと思っていた。おんぶしてほしいというからおんぶすると、「バブバブ」と言い始めた。どう声をかけても「バブ」としか返事をしない。赤ちゃんになってしまったのだ。赤ちゃんごっこだ。
それでしばらくバブバブ言っていると思ったら、こんどは高いところに登って踊りだして、写真を撮れ、と言う。手で写真を撮る真似をすると、スマホを持ってこいと言う。そこはごっこじゃないのかい!と思いながら、スマホを撮ってくると、とびはなて踊りながら歌って、写真を撮れと命じるのだった。これはアイドルごっこかなにかだろう。
常に、なにかのごっこをしている。そして、それに周囲を巻き込もうとする。
もしかしたら、これは、ごっこじゃないのかもしれない、という考えが浮かんだのだった。
というよりも、僕たち大人が考えるように、ごっこと現実が別れていないのかもしれない。というよりも、僕たち大人も常にごっこ遊びをしていると言っても、あながちはずれていないのかもしれない。
僕たちはごっこ遊びをして、他人を巻き込んで、おなじごっこをしてもらおうとする。しようとする。共同幻想という言葉がかつて流行ったそうだが、ごっこ遊びは蜜の味がするのだ。甘い、甘い、心地よい時間。守られた、自分たちだけの、親密で濃密な、生の体験なのだ。
僕たちはきっと生きるということの意味の壮大さにやりきれなくなって、ごっこをするのだ。ごっこで、いっときのサンクチュアリを作り出して。
追い出されない楽園。追い出される前に次の楽園をこしらえて。
ごっこはひとりでもできる。子どもはよく一人遊びをする。僕もした。
だが、誰かを巻き込んだごっこ遊びは、一人遊びとは違った喜びがあるのは、誰しもが知るところだろう。
「ごっこ遊び」を調べてみたら、ごっこ遊びは子どもが社会性を身につけるために大切な遊びです、と書いてあった。
それはどうだろう。だが、それだけではないはずだ。
ごっこ遊びは、それそのものが目的なのだ。その副産物として、社会性が身につくこともあるのだ。
ごっこ遊びは、目の前にいるほかの生命と、つながるという体験を求めるということなのだ。きっと。
僕はいまボイストレーニングに通っている。まだ延べで半年くらいだが、少しだけ進歩が見えてきて、今日などは、自分では決してありえないと思われた、ひとりカラオケを敢行してしまった。
僕は歌がうまくない。小学生くらいからそう意識していた。まず大きな声が出ない。高い声も低い声も出ない。
だからカラオケはめったに行かない。みんなで騒ぎにいくときだけしぶしぶいくだ。
でもあるときふと、僕の声って、これで終わりなのかな?この先はないのかな?と疑問が湧いた。思えば、声の出し方って教えてもらった記憶ない。音楽の授業でも習わなかった。なんなら、自分が地声だと思っている声って本当に地声なのだろうか?という疑問がわいた。あるときに、声の出し方をひとつ覚えて、ずっとそれをやってきただけなんじゃないだろうか。
もちろん、歌がうまくなりたい。そういうことなのだが、歌が思うように歌えたら、それって「自由」だなあ!って思うんです。
で、いまのところまだ飽きずに通ってるわけであるが、プロになるわけじゃなし、ライブの予定があるわけじゃなし、声の仕事をしているわけでもない僕に、ボイトレの講師は、真剣に教えてくれるんです。そのことが、不思議であり、なにやら助かっているんです。
意味がないんです。社会的には。言ってしまえば。僕が歌を少しばかり歌えるようになったって。お金の無駄だし、時間の無駄なんです。社会に価値をもたらさないのです。僕が少し声が出せるようになっても。
そんなことに、大の大人ふたりが、月に2回、1時間、わりと真面目に時間を使っているわけです。
これは何なのだろうと我ながら思うんです。なんでこんなことやっているんだろう。
人に聞かれれば、歌手になりたくて、とか、言っていますが、それは、自分でもなぜやっているかわからないからです。
おそらく、歌がうまくなった未来に意味があるんじゃなくて、今、声を出せるようになろうとあくせくしているこの時間に意味があるんです。そこにしか意味がないのかもしれない。もっと言えば、社会的に価値がないからこそ意味があるとさえ言っていいきがするのです。
得意なことを伸ばせば、仕事になるかもしれない。お金が稼げるかもしれない。人から褒められるかもしれない。人気ものになれるかもしれない。そしてなにより社会に価値をもたらすことができる。
それがそれでいいし、そうやって得意なことを持ち寄ってこの社会は成り立っていて、お互いに助け合って生きているわけです。そうだからこそ、今の暮らしができている。素晴らしいことだと思う。
得意じゃないこと、むしろ苦手なことを、自己満足のためだけに、取り組む。そして、それを誰かが支えたり、励ましたり、見守ったりする。
そのことの意味は意外と小さくないのではないか、というのが、今ボクが考えていることです。
超進化論
NHKで超進化論という番組を見た。
樹木が、地下で菌糸のネットワークで繋がっていて、栄養を分け与えあっている、ことがわかってきた、というような内容だった。
以前、同じことを本で読んだ記憶があるが、改めて衝撃的な発見だと思った。
樹木が根っこ同士でつながって、栄養を与え合う、というのなら、まだわかる気がする。しかし、根と根が離れていても、それを菌類が媒介して、栄養を伝達するというのだ。しかも、栄養を与える樹木は、同じ種とはかぎらないということなのだ。杉がヒノキに影響を与えることもあるということだ。
まるで樹木に意思があるみたいだし、とても他人(樹木)に優しく互助的だ。驚く。
まるで、アナーキズムを地でいくような感じだ。森は中央政府なしで互助的に支え合って成り立っているのだとしたら。日光や栄養をめぐって過酷な生存競争が繰り広げられているわけではないのだとしたら。
これは兆候ではないだろうか。次世代が始まっているのだ。
次世代が始まる時、我々は、次世代の礎となるマインドセットを、自然の中に科学的に事実として「発見」するのだと思う。
全世代のマインドセットが「競争」だとしたら、次世代は「助け合い」あるいは、もっと違う概念、まだ言葉がつくられていないような概念なのかもしれない。
友人の子どもと遊んでいるとき、こどもは本当にごっこあそびが好きなのだなあと思っていた。おんぶしてほしいというからおんぶすると、「バブバブ」と言い始めた。どう声をかけても「バブ」としか返事をしない。赤ちゃんになってしまったのだ。赤ちゃんごっこだ。
それでしばらくバブバブ言っていると思ったら、こんどは高いところに登って踊りだして、写真を撮れ、と言う。手で写真を撮る真似をすると、スマホを持ってこいと言う。そこはごっこじゃないのかい!と思いながら、スマホを撮ってくると、とびはなて踊りながら歌って、写真を撮れと命じるのだった。これはアイドルごっこかなにかだろう。
常に、なにかのごっこをしている。そして、それに周囲を巻き込もうとする。
もしかしたら、これは、ごっこじゃないのかもしれない、という考えが浮かんだのだった。
というよりも、僕たち大人が考えるように、ごっこと現実が別れていないのかもしれない。というよりも、僕たち大人も常にごっこ遊びをしていると言っても、あながちはずれていないのかもしれない。
僕たちはごっこ遊びをして、他人を巻き込んで、おなじごっこをしてもらおうとする。しようとする。共同幻想という言葉がかつて流行ったそうだが、ごっこ遊びは蜜の味がするのだ。甘い、甘い、心地よい時間。守られた、自分たちだけの、親密で濃密な、生の体験なのだ。
僕たちはきっと生きるということの意味の壮大さにやりきれなくなって、ごっこをするのだ。ごっこで、いっときのサンクチュアリを作り出して。
追い出されない楽園。追い出される前に次の楽園をこしらえて。
ごっこはひとりでもできる。子どもはよく一人遊びをする。僕もした。
だが、誰かを巻き込んだごっこ遊びは、一人遊びとは違った喜びがあるのは、誰しもが知るところだろう。
「ごっこ遊び」を調べてみたら、ごっこ遊びは子どもが社会性を身につけるために大切な遊びです、と書いてあった。
それはどうだろう。だが、それだけではないはずだ。
ごっこ遊びは、それそのものが目的なのだ。その副産物として、社会性が身につくこともあるのだ。
ごっこ遊びは、目の前にいるほかの生命と、つながるという体験を求めるということなのだ。きっと。
僕はいまボイストレーニングに通っている。まだ延べで半年くらいだが、少しだけ進歩が見えてきて、今日などは、自分では決してありえないと思われた、ひとりカラオケを敢行してしまった。
僕は歌がうまくない。小学生くらいからそう意識していた。まず大きな声が出ない。高い声も低い声も出ない。
だからカラオケはめったに行かない。みんなで騒ぎにいくときだけしぶしぶいくだ。
でもあるときふと、僕の声って、これで終わりなのかな?この先はないのかな?と疑問が湧いた。思えば、声の出し方って教えてもらった記憶ない。音楽の授業でも習わなかった。なんなら、自分が地声だと思っている声って本当に地声なのだろうか?という疑問がわいた。あるときに、声の出し方をひとつ覚えて、ずっとそれをやってきただけなんじゃないだろうか。
もちろん、歌がうまくなりたい。そういうことなのだが、歌が思うように歌えたら、それって「自由」だなあ!って思うんです。
で、いまのところまだ飽きずに通ってるわけであるが、プロになるわけじゃなし、ライブの予定があるわけじゃなし、声の仕事をしているわけでもない僕に、ボイトレの講師は、真剣に教えてくれるんです。そのことが、不思議であり、なにやら助かっているんです。
意味がないんです。社会的には。言ってしまえば。僕が歌を少しばかり歌えるようになったって。お金の無駄だし、時間の無駄なんです。社会に価値をもたらさないのです。僕が少し声が出せるようになっても。
そんなことに、大の大人ふたりが、月に2回、1時間、わりと真面目に時間を使っているわけです。
これは何なのだろうと我ながら思うんです。なんでこんなことやっているんだろう。
人に聞かれれば、歌手になりたくて、とか、言っていますが、それは、自分でもなぜやっているかわからないからです。
おそらく、歌がうまくなった未来に意味があるんじゃなくて、今、声を出せるようになろうとあくせくしているこの時間に意味があるんです。そこにしか意味がないのかもしれない。もっと言えば、社会的に価値がないからこそ意味があるとさえ言っていいきがするのです。
得意なことを伸ばせば、仕事になるかもしれない。お金が稼げるかもしれない。人から褒められるかもしれない。人気ものになれるかもしれない。そしてなにより社会に価値をもたらすことができる。
それがそれでいいし、そうやって得意なことを持ち寄ってこの社会は成り立っていて、お互いに助け合って生きているわけです。そうだからこそ、今の暮らしができている。素晴らしいことだと思う。
得意じゃないこと、むしろ苦手なことを、自己満足のためだけに、取り組む。そして、それを誰かが支えたり、励ましたり、見守ったりする。
そのことの意味は意外と小さくないのではないか、というのが、今ボクが考えていることです。
Macbook Air 決まりました
Macbook Airの色が決まらないという話をしました。
あれからずいぶん苦しみました。ぜんぜん決められなくて。
でも、買いました。ついに。色はシルバーです!
どうせ新しくするならスペースグレーを試したい、という気持ちにぐらぐら揺れながら、結局、僕はオーセンティックなシルバーが好きなんだ、と言い聞かせて、買いました。
届いて、箱を開けたとき、やっぱりいい色!と思いました。でも、開いてみると、どこかシャンパンゴールドっぽい光り方をしていて、それは、部屋のライトを反射しているからなんだけど、なんだか思ったのと違う、と少し落ち込みました。
でも、いま、すっかり慣れて、シルバーかっけえ!ってあらためてなっています。いつものことだけど、ほんとバカバカしい3ヶ月を過ごしたものです。
でも、僕がこうしたどうでもいい話を長々と書くのはそこになにか意味があると思っているからです。その意味は、まだ言葉にできていません。
このMacbookAirの色が決められない騒動の間に、YOUTUBEで同志を探してさまよいました。ついには日本のYOUTUBERでは足りなくなって英語圏のYOUTUBERを漁っていました。そして、ここが米国のいいところなんだよな、ということありました。
それは、視聴者たちがりちぎにコメントを残していくところです。この英語YOUTUBEの世界で、僕はたくさんの同志に会うことができたのです。
英語話者のたくさんの同志たちが、「シルバーかスペースグレーか、というささいな選択に私もめちゃくちゃ悩んでます!」という人も何人もいたし、「迷ったらシルバーにしておけば後悔しない」という格言みたいなフレーズがあることも知ったし、僕と同じく、ずっとシルバーを使ってきたから今回はスペースグレーにするんだ、という人もいました。
僕は、こうしたコメントを読みながら、僕はひとりじゃない。恥ずかしくなんかない、みんな迷うんだ!迷う人はいっぱいいるんだ!と少しばかり自己肯定をすることができたのです。
僕だけじゃない。おかしいことじゃない。
あとで後悔なんかしないことがわかっているのに、毎回決断できなくなってしまう。この病。僕だけじゃない。同志たちよ、大いに迷い、大いに語り、大いに愛でよう!
決められない macbook air編
ここ13日間ほど、ふさぎこんでいた。気持ちが落ち込み、自己否定の感情が吹き荒れ、人と会うのが嫌で、朝起きられなくなり、深夜にYOUTUBEをずっと見ていたりした。
隣人なども異変に気づき、どうしたの?と聞いてきたりした。夏バテで。。などと言葉を濁したが、それだけではない。きっかけはある。
僕がこのような抑うつ状態に突入した原因は、Macbook Airのカラーが決められなかったことだ。
わからない?
説明しよう。僕は2013年に買ったMacbook Airをずっと大切に使ってきた。もう9年!になるのだ。すごいだろう。そして、さすがにいろいろと限界が見えてきたので今年こそ買い換えることにしたのだ。
そして、ちょうどこの夏に新しいMacbook Airがリリースされた。これでいい、これを買おうと思ったのだ。
そして、いままでシルバーを使っていたから、今度はスペースグレーにしようかな、と思い、でも、ミッドナイトとか新色も出たので一応実機を見てから、とヨドバシカメラに出かけていったのがかれこれ一ヶ月ほど前のことだ。
それで何が起きたか。あれ?スペースグレーよりシルバーのほうがきれいじゃない?と思ってしまったのだ。
それから苦悩が始まった。照明の関係もあるかもだから一応、ほかの店舗でも見てみようと、別のショップへ。すると、こんどは、あれあれ、スペースグレーのほうがかっこよくないか?と見えてきてしまったのだ。でもシルバーもやはりいい。
もうおわかりだろう。決められなくなってしまったのだ。
このときすでに脇の下がしっとりと湿っていることに僕は気づいていた。
また例のヤツが始まった。。
ただ、シルバーなのか、スペースグレーなのか、それだけなのだ。
そう、昨年暮れにiPhoneを買ったときも、ほぼ同じことが起きていた。色が決められなくなったのだ。
ただ、頭の中で、たったこれだけのこと、どっちでもいいじゃん、と思ってはいるのだ。
iPhoneのときもそうだっただろう? あのとき、結局使い慣れてしまえばどうということはないし、迷っていたことさえも忘れると学んだのではなかったか?
でも、だめなのだ。脳がショートし、正常ではなくなっていくのを感じながら、僕は、決められないの魔法にかけられてしまったのだった。
あれから一ヶ月。3軒のAppleストアと、4軒の電器店を回った後、僕はプチうつ状態に突入したのだった。
そして、結局、まだ決められていないのだ。
僕のような人はほかにいるのだろうか? Macbook Airの色が決められなくなって、2週間ほど部屋に引きこもってしまうような人は。
これは、きっと、Macbook Airの色を決める、という問題を超えた、何かにちがいないのだ。
僕の根幹がゆさぶられている。
僕の心のなかでは、
どうしよ、Macbook Airの色が決められない→やっぱり俺はだめなヤツだ。もう何事もうまくいかないだろう。お先真っ暗だ。
ぐらいの回線ショートが起きているようなのだ。
この考察は続けなければならないが、今日はこれくらいにしよう。
ただ、同志がいるのかを今、とても知りたい。
本当にささいなこと
今回のイタリア旅行で、一番記憶に残っていることは?と聞かれたら、本当にささいなことを話すことになるだろう。
幸いなことに、ずばりそう聞いてきた人はまだいない。
本当にささいな、でも、何度も思い出されるシーン。それは夜のローマだった。
あれはどこだろう。何時ごろだったのだろう。観光客で遅くまで賑わうローマの中心街を歩いていたとき。きっと目的地があったはずだ。トレビの泉だったかもしれない。あそこには4度もいったのだ。
本当にささいなこと。僕は歩いていて、いや、立ち止まっていたのかもしれない。子どもたちのグループがやってきて、すれ違うところだった。子どもたちは5〜8歳くらいで、3、4人くらいで、騒がしく叫んだりしながら、割と足早に僕の脇を通り過ぎようとしていた。
ひとりの子どもがなんとなくこっちを見ている気配がした。何気なく目をやると、グループの中からひとりの女の子がこっちを見上げていた。なんだろう、なぜ僕を見ているんだろう、とぼんやり考えながら見ていると、ちょうどすれ違うときに、小さな声で「チャオ」と言った。それは、本当に小さな声で、おそらく僕にしか聞こえていなかった。ほかのことに気を取られていたグループのほかの子どもたちにも聞こえなかっただろう。
僕もとっさに、同じくらいの声で、あるいは声は出なかったかもしれないが、「チャオ」と返した。
たったそれだけの出来事だ。
これが、今回の5週間に及ぶイタリア滞在で、最も鮮明に記憶に残ったワンシーンなのだ。
そのことの意味を滞在中も考え、今も考えている。
そのとき、子どもにチャオと声をかけられたとき、僕は、意表を突かれハッとし、そして嬉しい気持ちに満たされた。
神様のいたずらのような、神が落とした金貨が地面に落ちる瞬間のような、そんな一刹那だたた。
この瞬間を僕は忘れることはないだろうと思う。
このような瞬間があること、そうだこれが旅というものだったんだ、と思ったのかもしれない。思い出したような感覚。
どうだろう。どうでもいいことだ。本当に。
どうせなら僕だって、すてきなイタリア女性に出会って素敵な時間を過ごしました、なんて話ができればいいと思う。だが、そういうことは、僕の場合、往々にして、起きない。ニアミスみたいなことはあった気がするが、実際は起きたことはない。
ささいな記憶。後日談がないからこそいいのかもしれない。その後、偶然その子と再会して、仲良くなって、家に連れていかれたら、そこで妙齢の女性が現れて、、、なんて話が続かないからこそ良い。そう思いませんか?
あまりにささいすぎて、誰にも話す気にならない、だからこそ良い、思いませんか?