できないことができるときとは

不思議なことに、今、部屋がずいぶん片付いている。

数ヶ月前までは、絶望的な気持ちで部屋を見渡したものだった。

とくに押入れの中を。服が散乱している。片付ける宛先がない下着たち。傾いたダンボールが棚の役割を担おうとしているが、役不足であることは明らかだった。

ずっと着ていない服が捨てられなかった。もう着ないことはわかっているのだが、買ったときの思い出、まだ着れるものを捨てる罪悪感、などなどで、捨てようとすると体が動かなくなるのだった。

そしてなによりも、部屋がすっきりと片付いているというイメージが持てなかった。どうしていいかわからないかった。自分には無理なのだ。ここまでなのだ。別に汚部屋というほどもないし、男のだらしない部屋といえば、それまでのことだ、と思い込もうとしてきたが、心のどこかでひどくがっかりしていた。

しかし、今、驚く。押し入れがスッキリしていることに。なぜこうなった。簡単なことで、服が半分以下になった。つまりは捨てることができた。すくたんじゃなくてリサイクルに持っていったのだが。それがよかったのかもしれない。リサイクルなら、ワンチャン、有効活用されるのなら、2回しか着ていない服だって、処分できた。

 

片付けられる人からすると、何をおおげさな、と思うかもしれないが、本当に何年も、俺には無理だこれ以上は。。と思い込んできたラインを超えることができた。

それが不思議なのだ。

今思えば、別になんでもない、どうしてできなかったのか不思議なくらいなのだが。

だが、こういうことは、人生でいくらもある気がする。だから書いている。

 

とくに心境の変化があったのか、そういう気もしない。気持ちの調子がいいのか、そうでもない。どちらかというと、落ち込み気味な気がしている。だが、そうした自己評価とは裏腹に、夜も以前よりずっと眠れるようになったし、体もすごく動かしている。月に2−3回は塩水に浸かっている。片道2時間かけて。。

 

でも、気持ちが晴れているわけではない。後味の悪い夢をよく見るし、ああ、もうこんなところまで来てしまって、やり直すことができない、とはかなむ気持ちに、1時間に2回ぐらいなるのが毎日なのだが。

 

アレン・ギンズバーグの教え子だったというアメリカ人と知り合いになった。名前はずっと前から知っていた。ビートジェネレーションのグルだ。だが、その作品に触れたことはなかった。詩集「吠える」を買った。

すごいな、とは思ったがとくに心が動くわけではなかった。でも、その当時に、この詩を手にとって、電撃に打たれたかった。そんな気はした。

 

狂った社会の中で、自分だけが正気で、狂った言葉で狂った社会を告発したかった。そんな24歳であったなら、と夢見る。実際は、正規ルートで成り上がるのに嫌気がさしていて、でもドロップアウトする勇気もなく、抜け道を探していた。結局は成り上がりたかった。すごいと言われたかった。成功者と呼ばれたかった。

アレン・ギンズバーグもそうだったのだろうか。

 

気がつけば、若者ではなく、気持ちは若いと思っても、若者と接すると、自分は若者じゃないことがわかった。でも、じゃあ、これは何なんだ。

そこはかとない怒りや焦燥が若者の特権であるのなら、俺はもうその権利を有しない。それは自分でもそう思う。もうそこにはいない。だが、これはなんだ。

社会への怒りは実はあまりない。自分もそれほど違わないのがわかる。誰だって悪者なんかじゃない。だが、これはなんなんだ。

 

言葉を失っていく。中年以降のおやじたちが、言葉を失っていく理由がわかる気がする。言っても仕方がないことばかりが、腹のなかで沸騰する。その刃が自分に向くことがわかっているのだ。

だからときおり、理屈ぬきの感情だけを吐き出すべく、キレる。

キレる場所を探す。台風に見舞われた駅の改札で、駅員に食ってかかるおじさんの悲哀。わかっているはずだ。悪いのは駅員じゃない。でも、俺だって悪くない。じゃあこの頭が真っ白になるほどの怒りはどこにぶつければ。

何も悪いことをしていないのに、大切なものが奪われていく。神様のいじわる。

そんなことを書きなぐってはみたが、今のこの日々がもてていることに、ありがたい、という思いがわいてくる。

数年前までは、このようなおだやかな日々が過ごせるとは思わなかった。これでも、ずっとずっとずっとマシになったのだ。

明日がこないで欲しい、朝にならないでくれ、そんな夜を幾日も過ごしていたころもあったのだ。

湘南の海で、夕方5時のサイレンを待っている。子どもたちがサーフボードを抱えて集まってくる。こんなところで何をやっているんだろう、と自分が不思議になる。笑えてくる。一体何をやっているのだろう。俺が。こっけいな。日焼けを気にしてサンスクリーンで真っ白になった俺が、いっぱしの顔つきで、乗れる波を見つけようとしている。まだサーフボードを抱えて歩くことすらうまくできない俺が。

 

”自分”が社会の中を生きていく、というのは事実誤認だ。

”自分のようなもの”がもがきながら歩いている。ときどき、見知らぬ人があらわれて、あらぬところをノックする。ドアはそっちじゃない、ここだ、この眼の前にあるんだ。だが、ときどき彼らがあっているときがあって、あらぬところにドアが開く。あ、そっちから出れるんだ、と出てみると、また、そこには濃厚な空気のワールドがあり、人々が歩いていて、少し息苦しいなあ、などと感じ始める。またドアを探す。だが、目の前にあるそのドアからは、なぜか出られないのだ。

 じゃあ、ということで、あらぬところにあるはずのドアを探す。でも見つからないのだ。どうしても。見つかる気がしない。本を読んでも見つからない。サーフィンをしても見つからない。ダンスをしても見つからない。きっと誰かがまたドアをみつけてくれると思っても、誰もノックしてくれない。

するとこんどは、足元にあったマンホールの蓋がズズズと音をたてたかと思うと、おかっぱの女の子が、かくれんぼしてたの、などと言ってきたりする。もしかして、そこから出れたりする?

いや、それは今考えたひとつの夢、願望、イメージ、ラビット・ホールにすぎないのはわかっている。こうやってイメージできたことは、もう起こらないのだ。

見知らぬ人だけがドアを空けることができるし、思いつかなかった場所にしかドアは開かないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

にんげんだもの

今日、朝から足の甲が痛んで、整体に行ってきた。大事はないとのことでよかった。おそらく、サーフィンで自分のボードにぶつがったのだろう。

そのあと、友人の子どもに会いにいった。今日はすこしクールなお出迎えだったが、うれしかった。

物の仕組みに興味があるようで、ベビーカーのアームを付けたり、外したりをしきりにしていた。そのあとは、自動ドアのボタンを押すと開くのが面白いようで、何回も何回も押してははしゃいでいた。

そのあとは、消毒の容器をプッシュすると消毒がプシュっと出てくるのが面白いようで、何回も消毒をプシュプシュしていた。

幼い子どもはあからさまに、面白いと思ったことを、飽きるまで繰り返す。全く同じことを何度も何度も。関心を失ったら次へと関心を移していく。俺もそんなふうに一日を過ごしていたときが、間違いなくあったはずだが、残念ながら記憶はない。思い出したいものだ。

小学一年生か、二年生か、三年生か、のころ、親が、学研かなにかの、日本の歴史シリーズの本を揃えてくれた。全部で13冊くらいあったと思う。白い装丁を覚えている。僕はいまいち意味がわからないながらも、面白い気がして読んでいた。そのうちの一冊のタイトルが「大正デモクラシー」だった。僕は、デモクラシーが何かもまったくわからないまま、母親に、大正デモクラシーはね〜、と何かを話していたのを覚えている。母は、難しい言葉しっててすごいねーと言っていた。僕は、誇らしい気持ちと、本当は意味をわかってないという背徳感に、体のなかが羽毛になったようなくすぐったり気持ちを味わっていた。もちろん、母はお見通しだったことだろう。

最近、何か具体的じゃない気持ちに浸りがちになっている。役に立つことをする意欲がいちじるしく弱くなっている。ヨガや英会話や、健康食や、自己啓発や、仕事やなんや、かやだ。

具体的に成果が出ることをここのところやる気があってやっていたのに、一週間くらいまえから、どーでもいいや、という気分が支配的になり、ひとりで音楽を聞いたり、小説を読んだり、していたいなと思うようになっている。まあ、そういうモードのとき、というだけのことなんだろうけど。自分の移り気に振り回される日々。

 

就職活動をしているとき、1つの疑問を持っていた。今の世の中、お年寄りが尊敬されていない。むしろ時代に遅れている、お荷物用に扱われている、というか、自分がそう感じてしまっている。だけど、そのことが悲しくもあって、それは自分の未来でもあるし、どうしてこうなっているんだろう、と、ぜんぜん自分の喫緊の問題ではないのに、なんかやるせない気持ちでいた。

インディアンの酋長はもっと頼りにされていたはずだ、と。

最近、その問題に回答らしきものが得られたような気がする。

それは瀬戸内寂聴だ。彼女が回答なのだと思った。

もう100歳になるという。彼女は、尊敬され、求められている。

心から、彼女の話をききたいという人が大勢いる。この僕だって、彼女に何かを言ってもらいたい、と思う。人生の支えになるような、なにかひとことを。

そしてなにより、彼女の、心のままに生きてきた実話をきくだけで、なんだか元気になってくる。

瀬戸内寂聴みたいになれば、僕のやるせなさは無効となる。彼女は110歳のときには、さらに10年分、人びとから尊敬され、求められているはずだからだ。年齢を重ねるほどに、重みを増す言葉。

僕はこれを寂聴モデルと名付けることにした。人生目指すべきは、寂聴モデルなのかもしれない。いや、と思う。でも、身近な家族はたまったもんじゃない、ということもありうる。好き勝手に生きている人。身内だったらしんどいのかも。

まとまらなくなってきたが、不可能じゃない、ということはわかった気がした。役に立つお年寄りになることも。

本当は役に立たなくてもいいんだ、という考え方もあるとおもう。生きているだけでみんな価値があるのだ、と。でも、それは理念みたいなもので、それをまっとうすることは、なかなか難しい。

それは行き着く境地のようなもので、それを頼りに生きるられるほど、太い綱なのだろうか。

ひたすら人に優しいだけの存在になれれば、それに越したことはないのだが、それはまたそれで、真の修行の道なのだ。そんなに徹底して優しくなんてなれない。いざとなったときに、非日常的な追い詰められた状況になったときに、それでも自分がどれほどの優しさを発揮できるのか、はっきりいって自信はない。あっといまに保身に腐心し、ことがすっかり終わってから、ごめんよと懺悔し、涙が乾かないうちに、にんげんだもの、と自分を許すのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サーフィンのジレンマ

夏からサーフィンを続けている。体力的にもうできないかもしれないと思っていたのに、もう一度、サーフィンがやれているのはうれしい。

しかし、一点だけ、困っていることがある。日焼けだ。

サーフィンは日焼けする。冬でもおかまいなしだ。ハットをかぶって、日焼け止めを塗りたくっても、しっかり日焼けしてしまうのだ。

色が黒くなるだけならいい。でも、肌が荒れたり、固くなったりしているようなのだ。肌が汚くなるのは嫌なのだ。せっかく、おしゃれを研究し、こぎれいに身繕いをしているのに、毎月きっちりとヘアサロンに通い、身だしなみをしているのに、肌が汚いようじゃあ、だめなのだ。

サーフィン、楽しいから、どんどんハマっていきたい。でも肌荒れが怖い。日焼けが怖い。サーフィンやればやるだけ上達して楽しくなる、でもそれだけ日焼けする。紫外線だ。

何かを得るには何かを代償として払わなければならない、そういうことなのだろうか。

とりあえず、日焼け止めをいろいろ試して、がんばってみるつもり。肌のせいでサーフィンをやめるなんて、女優じゃないんだから。。でも。。。

三浦春馬はサーフィンをしながらどうやってあの肌を保っていたんだろう。たんに若かったということだろうか。

 

ところで、三浦春馬が好きだった。彼の透明感にあこがれていた。それは見た目なのだろうか、内面からかもしだす空気感なのだろうか、だが、男性に感じることは少ない、透明感といえるものを、三浦春馬は醸し出していた。それに素敵な気持ちになっていた。

しかし、透明感とはふしぎな言葉だ。いえば、日本人なら多くの人が、どういう感じをいっているか共通認識を持てるようなのに、じゃあ透明感って何?と問うと、なかなか説明が難しい。

あの子は透明感があるか、という問にはだいたい一致する答えが出せるのに、透明感を分解するとよくわからなくなる。肌の白さ、きめ細かさ、がまず上げられるが、それだけでは透明感とはいえないのだ。

どこか、遠い存在のような感じ。俗世間にいない、天使の世界にいる、そんな感じも少し必要なのだ。

 

そういえば、今ふと思い出したが、若い頃、ディスコでバイトをしていたとき、サーフファーだという男性客が、数ヶ月に一回、ぶらりとやってくることがあった。背が高く、日に焼けて、洒落ていて、男の僕から見てもかっこいいやつだった。雰囲気はチャラ男の反対で、寡黙で、ナンパもせず、かといって踊りもせず、ただ、ぼうっと立って酒を飲んでいた。今思えば、影でナンパしていたのかもしれないが、いつもひとりで来ていて、変わった客と思っていた。

そういえば、僕とほぼ同時期に入ったアルバイトの男の子は、大学生だったのだが、頭の中で声が聞こえるようになって休学中なのだといっていた。ものすごくしずかでおとなしのいに、ダンスタイムになると狂ったように叫ぶので、面白がられ、かわいがられていた。

かといえば、16歳で一人暮らしをしているという女の子もいた。たしか、お金も自分で稼いでいたはずだ。いつもハイテンションで明るかったが、今思えば、そうとうの苦労があったはずだ。

僕の教育係だった先輩は、歯がなかった。シンナーで溶けたのだという。怖かったがやさしかった。

僕と同日に入ったアルバイトの男の子は、去年まで暴走族をしていたということで、写真を見せてくれた。警察署までいって解散届を出したという話を聞かせてくれた。礼儀正しくてかっこいいやつだった。

僕は、高校生まで酒もタバコもしたことがない、およそ不良の要素がゼロのまじめ優等生だったので、たった一年で真逆のような人たちに囲まれていたことは、今思えば驚きだ。でも僕はあまりに若かったので、それなりに馴染んでいくことができたのだった。もちろん、馴染み切ることはできなかったのだけど。

この時代は、いわゆる黒歴史なのだと思っていた。大学も行かずに、バイトと遊びに明け暮れていた。今思えば狂っていた。女性関係も荒れていて、今、パートナーと言える女性がいないのは、このときに悪い女性感、恋愛感を身に着けてしまったからではないのか、とずっと疑ってきた。ツケは大きかったな、と。

でも、やっぱりあれは必要な体験だったのだと今日、この瞬間は思っている。世の中にはいろんな人がいろんな風に生きていて、どこかにいきるよすがを見つけて、なんとか生き延びようとする。

そんなことをおもだしたのは、「推し然ゆ」を昨日読んだからかもしれない。

僕にとって黒歴史の舞台とも言えるあの場所は、生きるよすがだったのかもしれない。うっかり入ってしまったぬかるみなんかではなくて、さがしまわってようやく探り当てたオアシスで、汚れた黒い水をガブガブと飲むことで、僕は生き延びようとしたのかもしれない。

まったく人間とは不思議だ。普通に18年間生きてきただけの、なんの変哲もない男の子が、大学の教室にもサークルにも体育会にも学園祭にも、夢見たはずの青春を見いだせず、消えてしまいたいとまで思っていたあのころ、僕を救ったのは黒い水だったのだ。

そのことは、偶然ではないのかもしれない。あの水を飲むしかなかったのかもしれない。その構造はまだ紐解けていないけれど、孤独者が寄ってたかって乱痴気騒ぎをしているあの場所が、16歳の家出少女と同じように、僕の居場所だったのかもしれない。あくまで、仮の、なんだろうけれども。

オアシスは喉が癒やされ、体が休められたら、出ていかなくていけない。ただ、そういうことだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当の宝

8歳の姪っ子が箱根駅伝が好き過ぎることはもう書いただろうか。

本当に変わっていると思う。月間駅伝、みたいな本を神棚のごとく祀っているときく。

母親も父親もとくに駅伝ファンではない。姪が勝手に好きになったのだ。テレビで見かけたのだろう。

いまでは、駅伝に出場する全選手の大学と名前と走行区間を暗記してしまうくらいに好きになってしまった。

このことが、本当にうれしい。

姪がいつか若者になり、自分がわからないと言い始めたら、言ってあげることができる。君は、子どものころ、駅伝が本当に本当に大好きだったんだよ。

そうすれば、そこに戻ることができる。自分が心から好きなことがわかっていて、ただ熱狂していたたときに。

もし大人になった姪が、あの頃のことは覚えてないといっても、こう言ってやろう、君が忘れても僕は覚えている。君はそれはそれは駅伝のことを楽しそうにおしゃべりしていたんだよ、と。

 

いま、非対称性の解消というプロジェクトに取り組んでいる。

消費と制作のバランスを少し戻そう、という。

たとえば、最近、服をつくりたいと思っている。前から不思議だった。毎日着るもの、こだわるものなのに、自分の手で作り出せないことが。

どうして、こんなにも時間を使って、何件ものお店を回って、それでもこれだという服が見つけられない。

もちろん、服を作るのは大変だ。布からつくるとしても、シャツ1枚つくることだって、無理そうに思える。ユニクロなら数千円で買えるクオリティのやつだって、自分のこの手から作り出されるとは想像できない。

これが料理なら、少し事情は異なる。僕は自炊する。レストランのようの美味しいものはできないかもしれないが、自分で「十分おいしい」と思えるものを素材からつくることができる。作れるメニューは限られるが、日常生活を回せないほど少ないわけじゃない。

靴は、絶望的だが、デザインも気に入って、足型にも合う靴を探し回って疲れ切ったことがある僕は、どうして、こうなっているのだろう、と思っていた。今は、なんとか足に合う、デザインも好き系な靴を見つけたが、それが廃盤になったり、好みが変わったらまたプレッシャーのなかで靴屋をめぐることになるのだろう。

そして、なによりも不思議なのは、エンターテイメントの世界だ。芸術や文学に少しよるかもしれないが、僕は明らかに、精神の安定や、苦しい時を乗り越えるために、本や映画の助けを必要とした。おそらくもっと若い頃は音楽にも助けられたはずだ。高校時代、わけもわからず、パンクのテープを繰り返しきいていたりした。それは、耳から暴力的に怒鳴り込んでくるあの刺激を必要としていたときがある、とうことなのだと思う。自分の胸のなかにあるものをなんとか解放していたのかもしれない。

だが、自分手ではまったく作り出せないのは、これはなぜだ。

こんなに自分にとって重要なものが、自分の手で少しも作り出せない。クオリティの問題ではない。ぜんぜん作り出せないのだ。これはいったいどういうことなのだろう。(練習すれば演奏はできると思う。でも曲を作ることは想像すら遠い)

この非対称性はいったいなんなのだろう、と思うのだ。

いつかくるだろうか、僕が、自作の服を身にまとって街を闊歩し、いたく満足している姿をみるときが。

いつかくるだろうか、自分がつくった曲に癒やされ、自分が書いた小説に励まされるときが(これはプロの小説家でもないことなののかも・・)

でも、わかっている。きっと飽きてしまう。飽き性なのだ。

でも、少しやってみることはできるだろう。現に僕はいま、自分で編んだレッグウォーマーを履いている。できたてなのに穴だらけの。

 

子どものころ、家に「はぎれ」と書けれた箱があって、中に布の切れ端がたくさん入っていた。ズボンが破れると、母がはぎれの中から布を選んで修繕してくれた。いやではなかった。アップリケも楽しかった。あの文化は、もう母のもとにもない。はぎれはどこへいったのだろう。

 

いつもどおりに混乱している。部屋にものが溢れ、断捨離本を買って、さてどうしようかと途方にくれている僕は、服が捨てられずに困っている僕が、「はぎれ」の箱を懐かしく回想し、憧れのような感情を抱いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

せめて言葉が裏切らないように

今年の抱負を聞かれたとき、今年は言葉を大切にしたいと答えたのを思い出した。

 

昨年は、身体にフォーカスした一年だったような気がする。サーフィンを始めた。バドミントンも毎週通うようになった。ヨガもさぼりながらも日課にしている。

 

 

言葉は不思議だ。自分が口にする言葉が自分自身を裏切ることがある。裏切るとはこの場合、自分に偽りを言い聞かせる、といったような意味だ。

いまこの瞬間でさえ、自分が本当のこと、本当に思っていることを書けているだろうか。

 

必ずしもいつも、人に向かって本当に思っていることを言えない、それはそれでいいと思う。ああ、本当に思っていることを今、言えていないな、とわかってれば。

避けたいのは、自分では本当のことを話しているつもりで、実はそうじゃない、といった事態だ。意外と多い気がする。

 

 

そういうことを極力なくしたい、というのが今年の抱負だ。

これは、大事業なのだ。

とはいえ、ここに矛盾があるのがわかる。

本当のことを話しているつもりなのに、実はそうじゃない、ということはどうやったらわかるのか?というパラドックスだ。

時間をおけばわかるかもしれない。あのとき自分はああ言ったが、あれはうそだったと。しかし、それも、記憶の書き換えということもありえる。

じゃあいったいなんなんだ!

ということで次。

 

 

Ω←ちなみにこれは、いまキーボードにおでこをおしつけてうなっていたら、なぜか現れていた、なぞの文字です。どうやって打った??

 

今日、ひとつこだわりを捨てられた体験をした。

お正月におしるこを飲もうと思って、井村屋のおしるこの素を買ってあった。お湯で溶かすとおしるこになるよというレトルトパッケージだ。

だが、思いついたときにはいつも餅がなくて、おしるこを作ることができなかった。今日、いっそこのまま食ってやろうと思って、パッケージの封を切った。

果たして。なかにはあんこが詰まっていた。ふつうに食べられそうだった。スプーンですくって食べた。甘い甘いあんこだった。普通におやつとして食べた。おいしかった。

本当はわかっていた。ずっと前から。それがただのあんこに違いないことは。でも、裏面におしるこの作り方がバシっと書いてあるから、これはおしるこ用なのだと、こだわってしまっていた。

でも、そのまま食べることだっていいんだ。それを今日、実行した。成功だった。

こだわってしまっていたんだな、と思った。餅と一緒に食べることに。お湯で割って食べることに。でも、それがそのまま食べてもおいしいことは、ずっとずっと前からわかっていたんだ。

 

いま、プチ引きこもり状態になっている。人とあまりしゃべりたくなくなったのだ。引き金はわかっている。スキーだ。

みんなでスキーに行こうという計画がもちあがって、みんなが盛り上がっているのだが、僕は、迷った末、行かないことにした。

そのことでとても落ち込んでいるのだ。

行けない理由はとくにない。そこがポイントだ。

これが、別の用事があるから行けない、とか、怪我をしているから行けない、というなら、ただ、残念だ、でもまた次があるさ、と思うだけのことだろう。でも、そんな理由はひとつもないのだ。

自分の中にある躊躇だけがある。でも、行きたい、という気持ちもあるから、落ち込んでいるのだろう。

バカバカしいかぎりである。行きたいなら行けばいい。だれも止めていない。でも、行きたくない気持ちもまた、たしかにあるのである。それは過去のスキーの記憶や、コロナや、集団行動苦手説まで、さまざまな自分のなかの理由だ。

問題は、どっちに転んでも後悔するという必敗の構図に自らを陥れてしまったことなのだ。

それは、今回だけではない。何度もある。集団で遊びにいくとき、かなりの確率で陥る構図なのだ。

そして、その構図は、「自分だけで決めていいのに、その結果に落ち込むという、どうしようもなく優柔不断で混乱して弱っちい俺」というところに行き着き、ありていに言えは自己嫌悪の嵐がやってくるのだ。

わかっているのは、喉元をすぎれば熱くない、ということだけだ。

わかっているのに、また同じことを繰り返すのだろう。

しかし、と今は思う。そのスキーごときが引き金になった自己嫌悪が、いま、もうおれの人生はどうにもならないかもしれない、というところまで行き着きつつあるのだが、それは、それで、必要なことなのかもしれない、と無理に肯定的にとらえようとしている。というか、そうである部分もたしかにあるという気がする。

こういうことだ。ふだん目を背けている課題、問題に、きちんと向き合え、という無意識からのメッセージが届いた状態、という風に見れるということだ。あるいは、そう思いたい、ということなのかもしれないが、いずれによせ、もうそういうアンニュイなモードに入ってしまったのだ。だから、またブログを書き始めているのだ。

 

 

いや、ちょっとおおげさじゃないか、というツッコミがはいったところで筆を一旦置く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これから得られるものよりも、失うものの心配をしている。

これから得られるものよりも、失うものの心配をしている。

今年に入ってから、そんな日が続いている気がする。

思えば、ずっと前からそうだったのかもしれない。

 

公園を通りがかったら、2歳くらいの子どもがしきりと目線を送ってくるので、アレ?と思ってら、友達の子どもだった。

マスクをしていたのによくわかったな〜と思いながら、ひさしぶりと声をかける。おそらく、うれしそうにしていた。そのことがうれしい。

 

子どもは、自分の背の1.5倍はある鉄棒の下をくぐるときに、下を向き、必須に頭をかがめてくぐった。笑った。おかしくて、せつなくなった。どうしてこんなにかわいい。

 

子どもが抱っこしてほしいとジェスチャーをしたので、抱っこした。子どもは、僕の首に手を回して、首の後をコリコリと掻いた。そのしぐさに、懐かしさを感じた。逆の立場でそんなことをしていた頃があるような気がした。誰かの太い首に腕を回し、首のうしろをコリコリとした。

静かな時間が流れて、どうしよう、と思った。

子どもは、地面に降りたがった。この切り替えの速さもまた、子供らしく、好きだ。すぐに何かに関心を移し、とことこと歩いていった。

 

仕事もせずに海外をほっつきあるいているとき、父は何も言ってこなかった。関心がないのだと思った。そのことを友だちに愚痴ろうとしたら、君のことをよほど信頼していたんだよ、などとのたまう。そんなんじゃないんだよ、といいかけながら、それが一番聞きたい言葉だったことがすぐにわかった。

 

もう何ヶ月も、それなりに眠れる日が続いている。すごいことだ。睡眠障害をほぼ克服したのだ。夜寝て、朝起きることができる。

なにより、睡眠について、もはや、眠れないのでは、という不安感も、また昼過ぎに起きてしまったという罪悪感もなくなったことの、解放感は大きかった。

しかし、最近、また、少しずつ、寝る時間が遅くなりつつある。

不思議なもので、睡眠習慣が改善したおかげで、明らかに、頭と体がきちんと機能している時間が長くなったにもかかわらず、一日が短く感じる。なにか欠けている気がずっとしていた。

おそらくそれは、「悩む時間」なのかもしれない。じりじりと答えもなく、焦りつづける、あの不毛な時間が欠けている。

それは恐怖の源でもあると同時に、強烈な「俺はここにいる」という感覚をもたらしていたのかもしれない。俺は今ここで、こんなにも焦っている。

 

もちろん、そんなところから、生の実感を調達するなんて馬鹿げている。だが、かわりのものが見つかるまで、あるいはなれるまで、なにか物足りない感が続くのかもしれない。

 

願わくば、もっと何か違うところで、生きているという実感を、感じたいものだ。新しいパターンを必要としている。

 

不安ではない何かを。

 

 

 

坂口恭平の「まとまらない人」

坂口恭平の「まとまらない人」出版記念イベントに参加してきた。

 

坂口さんのイベントは初めてだったが、圧巻だった。

一時間半が文字通りあっという間に過ぎてしまった。

弾き語りライブ4曲と、インフレーション宇宙のような、トークからトークが派生し、またそこから別のトークへと、無限に植物の根が伸びていくような不思議なトークもすごかった。

最後に、ワークショップとして、参加者から希望をつのり、いのちの電話のライブバージョンをやってくれた。これも面白かった。

 

夢から醒めなければいいと思っちゃう、つまり、現実の毎日がつらい、という相談者には、

「やりたくないことをするな」とアドバイス。相談者は当初、どうすればやりたことができるのか、にこだわっているようだったが、恭平氏は、やりたいことをするにはエネルギーが100いる。やりたくないことをしないだけなら必要なエネルギーはゼロだ。という。

だから、やりたくないことをやらない、から始めなさいと。

そして、やりたくないことを列挙しろと指示し、一番やりたくない

ことだということを、じゃあそれを辞めなさい、はい解決だよ。と。

ただ、やりたくなことをやめるために、事前準備が必要だということで、たとえば仕事をやめるなら、生活保護や失業保険について調べて、現実的な準備をしないとね、ということだった。

平氏は、自分はやりたいことをやっているのではなく、やりたくないことを一切しないだけなのだ、という。

相談者が、でも恭平さんは、本を書いたり、表現活動をしているのは、やりたいことをやっているのではないのか?と問うた。

平氏は、そうじゃない。出さないと(表現しないと)苦しくなるから出してる。「出さない」ということが「やりたくないこと」なのだ、というようなことを答えていた。

イベントが始まる前、ぼくは少し驚いていた。会場には、若いファンが詰めかけているものと思っていたが、年齢層は以外に高く、みんな真剣な顔をしてじっと待っていた。重苦しい空気が流れていた。

だが、恭平氏が喋りだすと、みんな笑顔に。しかめっつらしていた人も笑っていた。これが恭平氏のパワーなんだと思った。

いま苦しいと感じている人、死にたいと感じている人の声をきき続け、励ましつづけている恭平氏に、すごいなあ、こんなに温かくてやさしくて激烈な人はいるんだな、と感動していた。

 

ただ、理解不能なことがひとつあった。。。

平氏、なぜが僕と目を合わせようとしないのだ。。。

新刊本を買ってサインの列に並んだのだが、なぜか、握手をするときも、僕の方を一切見てくれなかった。チラっと見て目が合うと、「あ、やばい奴きた」みたいな顔をして一瞬で目をそらし、以降、いっさい目を合わせてくれなかった。いっそ下を向いていた。

あれ、恭平さん、僕が苦手ですか??みたいな。。。

これがまったく腑に落ちないのだ。僕は嫌われるようなことは何もしていない。。本当に。僕の顔もにこやかだったはずなのに、なぜ目をそらされてしまうのだろう?

 

そのあたりのわけのわからなさも恭平氏の魅力のひとつなのだが、帰り道は少しさみしくて泣きたくなったりもした。

でも、もう一回ライブ行く。

 

 そういえば、今朝、寝起き際に不思議なことがあった。

ふと気がつくと、音が聞こえていたのだ。盛夏のセミの鳴き声のような音が周囲に充満している。

冷蔵庫の音かな?と思ったが、冷蔵庫の音はそれとは別に聞こえている。虫?でも外から聞こえてくるというより、空間全体を音が満たしている。

あれ?これってたまに、まったく音がないときに、音が聞こえるような気がするやつかな?と思う。

静寂の音というやつだ。

耳を澄ました。セミの鳴き声みたいな音なのか超音波なのかわからない音が聞こえている。それが音だと思うのは、微妙に変化してくからだ。音色みたいなものが。

あ、なんかバリ島のガムランとか、日本の雅楽みたいな感じかも、ともう。

そして、ああ、と気づく感じがあった。

世界は本当は音で満たされているんだ。静寂とされるときでも。

そして、その音を模倣、再現しようとしたのが、ガムランであり、雅楽だったのではないか?と思いつく。

そっか、そっかあ、とひとり納得しながら、その静寂の音に耳を傾けていた。

で、途中で、まてよ、やっぱり虫の音?と思って、指で耳の穴をふさいでみた。

すると、もっと大きな音がグワングワンと響いてきた。違う音だ。なんだこれ?

よけいわからなくなったので指をはずした。

そして、さっき、冷蔵庫の電磁波の音だったのかもしれない。なにしろ、冷蔵庫が頭のすぐ横にあったから、とつまらないことを思いつく。。