存在の確認

昨日、姪が電話をかけてきて、俺に変わって欲しいと言う。電話を変わると、何もいわない。そばについている母親に促されて、僕の名前を呼んではみるものの、こちらの問いかけにも答えなければ、問を発してくることもない。ただ沈黙が流れるだけである。

こういう電話が週に数回かかってくる。もちろん僕宛ではなく、家宛てであり、でも姪は必ず我が家の全員に代われと言うのだ。さしたる話もないくせにだ。

これはなんだろう?存在の確認をされている、そんな気持ちになる。ただ、声を聴いて、ああ、やっぱりあそこにアノ人たちはいるんだ、わたしの思い違いや夢ではなかった、と確認しているのだろうか。そしていつから、存在を確認せずとも確信していられるようになるのだろうか。

アニー・ディラードのアメリカンチャイルドフッドを読んでいたら、埋もれていた記憶が掘り起こされた。著者が自らの幼少期をつづったエッセイ集だ。最初の数ページを読んでぼくが思い出した情景は、たぶん高校三年生の冬の記憶だった。それは本当の冬、たぶん一月。吐く息が完全に白かったのを覚えている。ある同級生の家で闇鍋をやろうということになった。友人5人くらいで集まって、闇鍋をした。面白かったのが、二派にわかれたことだ。闇鍋なんだから突飛なものを入れてしまえ、という派と、闇鍋といえども食べるんだから、それなりにまともなものを入れるべき、という派だ。二派の間で少し小競り合いのようなことが起きたのを覚えている。

まとも派は、たとえばウンイナーソーセージなどを入れていた。ぼくはたしか突飛派で、グミとかチョコレートとかを入れようとしていたはずだ。まとも派に阻止されたか、はたまた無事、鍋にインできたのかは忘れてしまった。

闇鍋自体はたわいないものだった。たしかまだ日が少し残っている日暮れ時だったかと思う。鍋を食べ終えたぼくらは帰るために駅へ向かった。少し歩くと耳が痛くなるようなキーンとした寒さだったように思う。友人のひとりが、俺、冬が一番好きなんだ、と言った。僕は意外だな、と思ったけど、何も言わないでいた。

たわいない話などしながらだらだらと駅へと歩いた。たしかもうすぐ受験だという高校最後の冬休みだったと思う。僕たちは、たわいないバカ話をしながらも、どこか、これからどうなるんだろう、受験はうまくいくだろうか、などとぼんやり考えていたように思う。でもそれでも、やっぱりどこか緊張感もなく、本当の本番はまだ少し先なので、なんとなく、手持ちぶたさな気持ちで冗談を言い合っていたように思う。

まあ書いてみたら本当にたわいない記憶だった。その当時、僕らの間で流行っていたのは「冬物語」という受験生マンガで、みんなで回し読みしては、自分と重ね合わせて、それなりにいま、青春と呼ばれる時期を生きているんだという現状をぼんやりと確認したりしていた。

僕は姪っ子の存在の確認の一員になっていることが、当たり前のような不思議のような、こそばゆい感じがするのだった。