とりとめのない飢餓についての思考

むかし、貧しい農村ではご飯を食べるために、子どもを売ったりしていたという。日本のことだ。そんなに昔じゃない。100年、200年くらい。もっと近いかもしれない。

とんでもないことだ。現代で考えれば。そういうことを考えれば、とりあえず、食うために子どもを売らなければならないような事態になる前に、生活保護もある、そのほかの公的な救いの手がある、そもそも食べ物は余るほどある、今の日本は本当に暮らしやすくなったものだと思う。考えれば、だけどね。体感的には、なんかなーというのはあるけど。昔はもっと大変だったのだ。少なくとも、飯を食う、という生死の根源レベルにおいては。

 

だから本当は、ついに我々は飢餓を撲滅した、少なくとも我が同胞が餓え死にすることのない国を作りあげた!ばんざーい!という儀式を一回やったほうがよかった気がするね。

たぶんそれが達成される前後には戦争をやってて、それどころじゃなかったというのと、戦後すぐは餓死もありえただろうし、そのあとは敗戦のショックと占領とでバンザイどころではなかった。で、いつのまにか餓死しない日本、というのが当たり前になっていて、どころか、オリンピックまで開いちゃった、みたいな流れなんだろう。

とりあえず、俺達はもう餓死しないんだぞー!みんなだ、全員だよ!ってたたえあいたいね。

もちろんそれは、工業化と、貿易のおかげなのであって、一斉に経済封鎖でもされれば、食べ物がない!という事態はありえるかもしれない。でも、そうならないようにするすべはあるだろうし、世界同時飢饉とかにならないかぎり、もう日本に、村ごと餓死しそう、みたいな状況は生まれないのだと思う。

もうそれでいいじゃないか、という声もする。

もうそれでいいじゃないか、ではないのはなんでだろう、という頭で考えただけの疑問が湧く時がある。

まあ自分だって、それでいいわけじゃないからしょうがない。俺だって餓死さえしなきゃハッピーでしょ、毎日笑って生きられるでしょ?って言われたら、あほか、もうちょっといろいろしたいしほしいわ、って言うと思う。せめて人並みには。。。。。。。。。。

この人並みがくせもので、人並みはレベルアップしていってしまう。

みんなが人並みを目指せば、人並みはじりじりとせり上がってしまう。というか、常に人並みじゃない人がでて、そういう人は焦るし、つらい気持ちなる。だからがんばる、で、人並みがまたじりじりとあがっていく。

でも、がんばるって大切なんだろうと思う。がんばればいいじゃないか、と思う。そこに生きがいや充実が生まれるんだろうと思うからだ。

それぞれの立場で、それぞれの願望欲望があり、それぞれにがんばる。そのせいで人並みのハードルがあがっていくのは、それは、まあ、悪いことじゃないと思うかな。もしかすると日本から飢餓がなくなったのはそのおかげなのかもしれない。日本というか、世界がその方向へ向かってきたのは。

最近はずっと女子バレーを見ている。ああ面白い。3時間ずっと面白い。すごい。彼女たちはすごい。

 

小学校のとき、いじめらしきことはやっぱりあった。いじめられる子はたいてい、何も悪くない、ただ、すこし動作が緩慢だとか、ボーっとしているとか、外見がボッサリしている、とか、そういう子たちあった。性格が悪いからいじめられる、なんてことではなかった。

何もしないのに、ヤジを飛ばされ、ややもすると足蹴にされたり、こじかれたり、ものをなげられたりした。いまボクの頭に浮かんでいる子たちは、僕から見て、内面がよく推し量れない感じの子たちだったから、それをどう受け止め、どう処理しているのか想像がつかなかったし、今でもわからない。

どういう大人になったのだろうか。はっきりいって、ちょっとトロいだけの優しい子たちだった。何かの才能が開花してえらくなっているかもしれない。そういうことであれば痛快だ。あるいは、優しいパートナーや仲間を見つけて、幸せにのんびり暮らしているのかもしれない。トロさは変わっていないかもしれないが、それが大きな障害にならない暮らしにたどり着いていることを願うし、きっとそうだと思う。

僕が学校のプールで唯一溺れかけたとき、たしか、排水口の真上に立ったら、顔を上に出せなくなった、ぼくの脇腹をもってザバっと持ち上げて助けてくれたのは、そうした男の子のひとりだった。先生も気づかなかった。手が届きそうなところにたくさんクラスメイトがたくさんいたのに、誰も気づいてくれなかった。なんであいつは気づいたのだろう。おれはお礼を言えただろうか。

極限状態になれば、人間の醜さが出る。だから、極限状態にならないように、ならないように、社会は運営されなければならない。だから、戦争はいけないのだ。

俺達は一皮むけば修羅なんであって、そのことを身を持って知った元軍人たちはただ沈黙したのだろう。社会がどんなに成熟したって、そこにいる人間たちが極限状態の訓練を積んできたわけじゃない。ただ、極限状態を避ける仕組みをせっせと積み上げてきただけなのであって、極限状態を軽々しく乗り切れると精神論をぶってるやつほど簡単に修羅になるんだろう。

おれは修羅になりたくないから、飢餓も戦闘も、ごめんこうむるよ。

貧乏もしたくない。

でも、現代社会の中で修羅になる人もいるようだ。

ところで「修羅」の使い方あってのかな。。