図書館への路

最近、図書館への往路を歩いていくようになった。あまりに運動不足でおかしくなりそうだったからだ。実家の周囲は20年ほど景色が変わってない。なんちゃら保存地区に指定されていて、開発ができないそうだ。10代の僕ならそれを退屈だと感じただろう。でも、今は、それっていいじゃん。と思える。決してきれいとは言えないが、川が流れていて、田んぼと畑が慎ましく手を広げている。田んぼと川の間にウォーキングコースがあって、くすんだオレンジ色のアスファルトで舗装されている。いつもこの道を歩く。片道30分の静かな散歩だ。

遠くから道路を行き交う車の音がごく控えめに聞こえてきて、すぐ横の川の、小さな滝みたいな音がごーごーと聞こえている。小鳥たちの飛び方を始めて把握した気がした。小鳥たちは、数回羽ばたくと体をすぼめてスイーっと滑空する。1.5秒羽ばたいて、1.5秒滑空する感じ。それの連続でほぼ水平に飛んでいけるようだ。海の中のイルカのようなと言えば伝わるだろうか。それのクイックな感じ。

鳥がそういう風に飛んでいるなんて、注意して見たこともなかった。思えばすごいボディーコントロールだ。3次元空間で体を思い通りに移動させているのだ。重力も風もあるこの地上空間で。

 

なんてことに感心していたら、灰色のバンが川沿いに停まっていた。中で作業服の人が昼寝をしているようだった。昼飯の後にちょっとひと眠りといったところか。車内の男がちらっとこちらを見た気がして、ぼくはあまりそっちを見ずに通りすぎた。

 

不思議なことに、大通りの方ではなく裏の川の方を向いている大きな看板に出くわす。派手な字で、園芸用品かなんかの宣伝が描いてある。これは誰向けの広告なのか?これを見るには、この川沿いのさびれた遊歩道を歩くしかない。平日昼間だとこんなに静かな田んぼの中の裏道だ。それでいいのだろうか。

まあ、いいのだ。

向こうから人が歩いてきた。ビニール傘を持ったちょっとガタイのいい20代とおぼしき男性。僕はなんとなく眼のやり場に困って、下を向いて歩き始めた。すれ違うまでの視線の交錯に耐えられないのだ。なんというか、あの妙な緊張感に。

同じ緊張は例えば、久しぶりの友達と飲んでいて、駅の改札を一緒にくぐって、でもお互いに反対方向の電車に乗るために別々のホームに別れるわかれ際に、バイバイ、また会おうね!今日は楽しかった!とハグのひとつもして別れ、階段を下りてホームにつくと、反対側にその友達がいた。結構正面な感じでいて、お互いに照れ笑いするけれど、声をかけるのもはばかられる。とはいえ、正面にいるのに本など持ちだして読むのもおかしいし、携帯をいじるのもなんだかなあと思う。かといって、見つめ合っているのも不自然だし、どうすればいいんだという感じになって、さっきまであんなに感動的に別れて、やっぱり持つべきものは友だな、などとひとりごちた後だけに、早く電車こないかな、とか思ってる自分を、なんてやつだ、となじったり、いや、普通でしょ、と思い直したりする、あの時間のことだ。

 

で、なんとか微妙な空気に耐え、すれ違う。すれ違いざまにはちらっと見てしまう。目が合うようなら会釈ぐらいしとくか、と思うのだが、その男はなんだか怒ったような顔をしてこちらを一瞥し、すたこら行ってしまった。わかっている。こういうときは相手のが悪いんじゃない、たぶん僕の表情も怖かったはずだ。こういうときは、だいたいそうなのだ。

以前、街を歩いているとき、すれ違う人々がみんな僕をジロジロ見ていくので、一体なんだ?と思っていた時期があった。老若男女をとわず、一様に怪訝な顔をして僕を見て、すれ違っていく。なんかヤナ感じだな、みんなストレス溜まってるのかな、などと思っていたが、あるとき気付いた。あ、おれがみんなをジロジロ見ていたんだ、と。おれは人をジロジロ見るくせがあり、たまに友人に「見過ぎ」と注意されることがあるのだ。なるほど、僕が見てるから、向こうも、見てくるんだ。それがわかってからは、なるべく気づかれないように見るようにしていたが、やっぱりなぜか気づかれてしまうのだった。第六感とゆうやつだろうか。下を向いていたり、横を向いている人まで、僕の視線にかなりの確率で気づいた。

いまは図書館へ向かっているところだった。という感じでてくてく歩くと、茶色い市役所が見えてきて、その横を通り過ぎれば図書館まであと100歩くらいだ。

5年前くらいに立てられたほとんど新築といった感じの感じの良い図書館に入ると、すぐ左手に小さな喫茶コーナーがある。ぼくはいつもここでコーヒーを注文する。それが図書館でまず最初にすることだ。図書館にかぎらず、僕は朝起きると、コーヒーを飲むまで、朝が始まらない気がしてならない。仕事など手につきようもない。本当はご飯の前にコーヒーを飲みたいくらいだが、さすがにその習慣はあるときやめた。

で、250円のコーヒーを注文した。僕はコーヒーを飲みながら仕事をしたいので、こぜわしい喫茶コーナーよりも、併設されている休憩コーナーへ直行する。そちらのほうがテーブルも広くて人も少ない。で、コーヒーを待つ間にメールをチェックしたり、ちょっとしたメモをとるのがひとつの充実タイムだ。仕事はコーヒーがくるまで始めない。

5分もすると、番号札X番のお客様〜、と呼んでくれるので、はーいと返事をして手を振ると、コーヒーを運んでくれる。コーヒーには手作りらしいクッキーが2つついてくる。これがまたいい。

ここまで来たらあとは仕事が進むことを祈るばかりで、無理矢理にでも集中をもってこないといけない。翻訳というのは、なぜか集中しないとぜんぜん終わらないのだ。だらだらやっていると、時間が永遠とかかってしまう。やればやった分だけ進むわけではないようだ。集中力が高まれば、短時間で終わってしまうこともある。だから、コンディションが結構大事なのだ。

小一時間すると、集中力がグンと高まったのがわかった。にわかに頭がさえ、ピーーンという空気の音さえ聞こえそうな静寂が脳の中に起こる。あ、来たかこれは。これがフローとかゾーンと呼ばれている状態か。これはうまくつかまえねばならない。気を散らすともう一度集中を取り戻すのに苦労したり、あるいは二度と戻ってこない。だから、ここは大事にいこう。ぼくは、焦らない気持ちで、原稿をにらみ過ぎないように睨みつけた。しかし、同時にある異変が起こっているのにきづく。チッ、こんなときに。そう、便意をもよおしているようなのだ。今すぐか?下腹のあたりに聞いてみる。今すぐじゃないよ、まだ大丈夫、と返事がくる。しかし、もっても10分、20分、最大で30分というところか。ああ、せっかく集中モードに入ったのに。。しかし、便意をコントロールするほど人生経験をつんでいるわけではない。ここは、便意が、そら!いますぐトイレに突っ走れ!と司令を出してくるまでが勝負。その間になんとか一区切りまで仕上げてしまいたい。

そういう戦いをみっか前にやった。そして、奇遇なことに一昨日も同じ感じになった。そして、昨日も同じことが起きた時、さすがの僕も「あっ」と気づいた。集中してきたときに、たまたま便意をもよおしたんじゃない。便意が集中力をつくりだしているんだ、と。

それを証拠に、トイレに駆け込み、ぶりぶりと便なるものをひねりだし、おしりなどひと洗いして、すっかり気持ちよくなったあと、手などを洗っているときに気づくのだ。さっきまでの集中モードがすっかり消え去っていることを。また普通の人に戻っている。ちょっとダルく、いつもちょっと眠い、あのひとに。

そんな闘争を日が落ちる頃までやったあと、あとちょっとやりたかったけど、もう集中力が切れたし、帰ろうかな、と席をたつ。帰り際みわたせば、制服の男の子、女の子たちが真剣な眼でノートにシャープを走らせていた。えらい。ぜったい俺よりあんたたちのほうがえらい。浅いかさぶたを剥がした後のような軽い罪悪感と自己情けない気持ちを抱え、それでも規定の10冊めいっぱいの本の貸出処理を終えながら、おれは本は読むんだ、読めるんだ。などと自慢していいのか悪いのかわからないことを心でつぶやきながら、すでに肌寒さを少し通りすぎようとしている日没直後の夜に歩を踏み出すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

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