無意味な思考実験

ものすごく遠くを見れば、世界が向かう方角はわかっているような気がする。世界規模で見れば、生活状況の格差、つまりは経済格差と言ってもいいが、は、ぐんぐんと縮まっているのは明らかだ。中国の人がこんなにたくさん海外旅行できるようになったのは、感慨深いことだ。データによると、飢餓や、一日1ドル以下という極貧は、ここ数十年で半減したらしい。

今後、局所的や期間言的的な飢餓やなんかはあるだろうが、絶対的に人が生きられないほどの貧困地域というのはなくなるだろう。つまり、栄養が足りなくて死んじゃう、というような状況のことだが。それは、あと数十年で地球上からなくなるだろう。

そして、あと何回戦争があろうと、環境はいかほどに破壊されようと、そういうものを乗り越えながら、いわゆる先進国と発展途上国の差はどんどん縮まっていくのだろう。

つまり、世界は理想へ向かっていくのだと思う。

生まれついた能力、境遇、運の格差、そういうものがなくなることはないだろう。だが、いまのアフリカと先進国の差ような、地域まるごとの絶対格差みたいなものは、消えてなくなっていくだろう。

ビル・ゲイツみたいな飛び抜けた金持ちはいつの時代でも登場するだろうし、ホームレスがいなくなることもないだろう。

だが、誰も餓死はしない。寒さで死ぬこともない。着るものがないと泣く人もいない。そういう世界は遠からず現実のものとなるだろう。

そして、それは、かつてのソ連のような全体主義ではなく、資本主義、自由主義、の延長として、出現するだろう。このへんからは理想のなかの理想だが、人びとが自由にモノやサービスを交換しあいながら、それでいて、自分の持てる資質をかなり発揮しながら、それなりに満足する仕事と、それなりに満足する生活を、それなりに多くの割合の人が手に入れて、切磋琢磨、自由闊達、たまに苦しみながら、たまに狂人などを出しながら、それでも多くの人が、自分で決めた人生を自分なりに充実させて、生きて、死ぬ世界が訪れるだろう。

それは数百年後かもしれないが、数十年後かもしれない。

そして、問われるのは、そのとき、お前は何をしていたいんだい?ということではないだろうか。

お前の立ち位置はどこらへんにあるんだい?

まあ、そうはいっても、そんな世の中になったら、考え方も価値観もすっかり変わっているだろうし、今、それを考えるのは無理な気がしないでもない。

だが、恐ろしいことに、そういう理想社会はたぶん、訪れるのだ。

少なくともそこへ向かっていくのだ。

それはとても安堵する、人にやさしい世界だという気もする反面、どこか恐ろしい、いま大事にしていることが、台無しになる世界だという気もする。精神が持つだろうか。もちろん新しく生まれる人は、何にでも適応するだろう。

だから、ぼくは本当は生まれ変わりたいのかもしれない。新しい人として、この世に生まれたいのかもしれない。

 

よく、いまの経験を持ったままで、もう一度人生をイチからやり直したら、いろいろ思い通りにできるて、ウマウマだということを考えたりするが、きっとそれはうそだ。

うまくいくかもしれない。学校では常にトップの成績で、女の子にももてて、クラスの人気者やリーダーにもなれて、尊敬されて、自尊心がウマウマで、それはそれはいけるかもしれない。

だけど、ドキドキが代償になる。その年齢ごとに体験する「はじめて」のことを、体験できないのだから。どこか知っていることだらけなのだから。

どうなのだろう、こんな無意味な思考実験をするはずではなかった。

だが、もうひとつ、思うこと。ある意味、恐ろしいこと。

それは、世界の価値観も似通ってきているようだ、ということだ。

昔なら、日本から脱出して、例えばタイとかに行けば、ガラっとちがう環境、価値観の中で生きることができたのだと思う。ここ2年ほど、タイに住んでみて思うことは、ことバンコクに関しては、もう日本とかとそれほど違わない。

いや、いろいろ違うのだけれども、もうタイ人もいっぱい日本へ言ってるし、日本人もいっぱいタイにいるので、隠れる場所などないよ、と思うのだ。日本ではアレだったけど、タイなら生まれ変わって第二の人生を生きられる、そんなふうにはもうならない気がする。インドだってそうかもしれない。アフリカあたりならまだいけるかもしれないが、本当に社会の一員になるのは難しそうだし、でもあと数十年もすれば、なんだ、世界はみんな一緒だな、とがっかりすることになるだろうと思う。

幸か不幸か世界は均質化する。

それは、ひとりひとりの個性がなくなってしまうということではない。地域によって大きく価値観や生活様式が異なる、みたいなことが薄れてしまうということだ。

だから世界中に逃げ場所がなくなるともいえるし、世界のどこでも生きていけるようになる、とも言える。

EUなんか、もうそれに近い状況になりつつあると思う。

きっとそうなる。

なんだかんだいっても、トヨタが世界で売れている。いいものはいい、便利なものは便利、そういうことなのだ。

世界のどこかに素朴な村人たち国家が残っていてほしい。そう願うのは勝手だ。だが、そうはならないだろう。いや、もしかすると、アーミッシュのように、宗教というものとともに、ごく限定された人数規模でなら、残るかもしれない。

 

何が言いたいのかというと、やはり先進国は進んでいるのだということだ。ぼくはそう思う。いったん世界中がヨーロッパ型の生活になるんだろうから。自動車、携帯電話、インターネット、テレビ、空調完備の住宅、近代的な病院、そういうものへと向かっていく。つまりはテクノロジーだ。

ちがうのだろうか。

逆流も起こるだろう。例えば、西洋医療が東洋医療を吸収合併して、総合的なものになっていくことは十分考えられるし、おそらくそうなるだろう。

でも、それでもやはり、世界は同じようになるだろう。

本当はうらやましいのだ。生まれた時からインターナショナルに育っていく子どもたちが。だって楽しそうだし、世間が広いってことだから。最初から世界が世間なんだから、彼らにとっては。

ぼくらの孫の孫の世代には、それが当たり前になるのだろうと思う。だから、そういう世の中が早くきて欲しいのかどうか、わからなくなる。自分もそれに乗っていけるのなら、早く気てほしい。早く世界を世間として、広い世間を楽しみたい。でも、乗っていけないのなら、自分の目の黒いうちは大きな変化は起きてほしくない。だって悔しいから。そういうふうに人は歳をとっていくのだろう。

そしてそれは宿命でもあるのだ。

でも、そういう大きなうねりのような変化に対しては、なにを言ってもどうあがいてもしかたがないのだ。そして、遅く生まれ直すことも、早く生まれ直すことも、できないのだ。

だからつまりは、どうだっていいのだ。