小説の季節

最近よく小説読む。このまえまでは平野啓一郎「ある男」を読んでいた。そのまえも平野啓一郎の「マチネの終わりに」を読んでいた。

 

これは僕にとって珍しいことなのだ。ふだん小説はあまり読まない。エッセイやノンフィクションのほうが好きだ。

だが、ときどき、無性に小説が読みたくなる。そういうときは希望がなくなっているときだ。自信といってもいいのかもしれない。

いまは橋本治の「金色夜会」を読んでいる。

自分のことを忘れたい時なのだと思う。小説を読むときは。

人と人とが出会って、その誰もがいずれこの世から消えていく。

小説に書かれているのは、ただそのことだけ。

ただそれだけのことのなかに、あまりにさまざまなことが起こっている。

不必要なほどに。

そうしたものを、もっとすっきりさせられないか、というのが、小説じゃない本たちの試みのようにも思える。人生をもっとシンプルに、楽に、思い通りに、あるいは、飲み込まれないように。

だが、その試みはたいてい失敗するし、ずっと失敗しなかった人でも最晩年で飲み込まれてしまうかもしれないし、自分には関係ない話だと思っている人がすでに人生のごく初期のころから飲み込まれてしまっているだけなのかもしれないし。

小説に出てくるのは、人生を思い通りにできなかったひとばかりのきがする。

植物が種から目を出すように、我々は生まれてくるんじゃない。

もっとちがうありかたをしているような気がする。あらかじめ、最初から。

人生なんてこんなものさ、と悟ったはずなのに、普通の生活さえもがままならなくなっていく人たちもいる。

ミノムシが木から落ちそうになりながら、自ら吐き出した糸を伝い登っていく。そんな小さな情景に幸福を見る時間が永遠に続いてくれるわけではない。

いつも不思議だった。朝、2階の非常階段の扉を開け、3階のベランダに出て、はるか遠くに水色とグレーの山々が見えたときの、ああ、気持ちがいい、いま幸せなのかもしれない、という気持ちは、きちんと胸のところに物理的な筋肉の、おそらくは心臓の緊張、あるいは緩和として感じられる、あの満たされた感覚は、確かなものなのに、数秒から数十秒ですぅっと消えていってしまうことが。

目の前の景色は1ミリも変わっていない。人生のいかなる状況も。ただ、フイにやってきたものが、静かに去っていった。引き止めることはできない。

 

怯えるな、が吉福さんからのメッセージなのかもしれない。

ただひとついえることは、人が生きていくということの、きちんとしたイメージや解説が、世の中にはまだととのっていない。生きていくということは、言われているようなことじゃない。

シンプルにしすぎれば硬直する、すべてを解放すれば崩壊する。そのあやうさのうえを滑っていく。われわれはそういう営みをしているのではないかと思われる。

 

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THE SEASON OF NOVELS

 

Recently, I started to read novels. I had read Keiichiro Hirano's “A Man” and “At the end of Matinee”.

 

This is unusual for me. I usually don't read much novels. I prefer essays and non-fictions.

But sometimes I want to read a novel for some reason. Perhaps that is when I can no longer feel hope. Or maybe it's when I'm losing confidence.

 

I am currently reading Osamu Hashimoto's “Golden Night Party”.

Maybe I read a novel when I want to forget about me.

 

People meet each other and all of them disappear from this world.

That's the only thing written in the novels.

There are so many things happening in it.

Unnecessarily many.

 

It seems that books that aren't novels are trying to make such things clearer, such as making life simpler and not being swallowed up by the things in life.  

But those attempts usually fail, and even those who haven't failed all the time may be swallowed up in the last years. Sometimes people who think that the story is not relevant to them have already been swallowed since the very beginning of their life.

 

Novels come out only for the people who couldn't live their lives.

 

 

We are not born like plants that come out of seeds.

I feel like we are doing something different from the time we are born.

Even if you thought you understood what life is, over time, you may not be able to manage even your normal daily life, and you don't know why.

 

 

As a caterpillar is about to fall off the tree, it is trying to go up the thread it spit out. The time to feel happiness in seeing such a small scene does not last forever.

 

It was always mysterious. In the morning, when I open the emergency staircase on the 2nd floor, go out to the veranda on the 3rd floor and see the light blue and gray mountains far away, sometimes I feel that I may be happy now.

 

It is a certain sensation that can be felt in the chest.
Perhaps it is heart muscle tension, or relaxation. It is a certain feeling that makes you want to hold your chest.
Nevertheless, the sensation disappears for a few seconds.

The scenery in front of me has not changed at all. The feeling of visiting here stays a little, then leaves quietly. I always fail to keep it.
 

 

“Do not be scared,” may be a message from Mr. Yoshifuku.

The only thing that can be said is that the world still does not have a decent image or explanation of how people live. Our lives are different than what the world tells us. 

If you try to make life too simple, it will stiffen. If you feel every emotion in every moment, it will be overwhelming. We are walking on the balance beam of life, not wanting to fall into the two extremes.  

 

 

 

 

2つの価値

ずいぶん前、フェルデンクライス体操というものを習っていたときのこと。オランダでフェルデンクライス体操を使って、身体に問題がある人を治療している先生のところで治療の様子を見せてもらったことがある。

その先生のところは、医者がサジを投げたような、治療困難な患者が送り込まれてくる感じだった。

たとえば、背骨が(正確にいると背筋が)曲がっていて、このままだと今後の成長に支障が出るから背骨にボルトを入れましょうと医者に言われ、それがいやだと言って治療に来てい10代の女の子がいた。

僕が見学させてもらった日、彼女はやってきて、今日の体育の授業で、みんなができる動きが自分にはできなかったと訴えていた。

肘を90度にまげ、がんばるぞ!みたいなポースをとったあとに、そのまま胸を張るように肘を開いていく、という動きができないようだった。実際、その場でやってもらうとできなかった。

フェルデンクライス体操、あるいはその先生がすごいのは、その日、その場で、その動きができるように彼女を導いてしまった。

骨がゆがんでいるのではなく、骨を引っ張る筋肉に無駄な緊張や、アンバランスな力が働いて、体を思うように動かせなくなっているというような感じだった。先生は、だから、ボルトを入れなくても、筋肉のほうにアプローチしていけば背筋が戻るんじゃないか、というような見立てをしているようだった。

 

今日は話したいのはその患者のことではない。

 

これは、当時も感慨とともにブログに書いた記憶があるが、すでに亡くなったとある男性患者の人からもらったという手紙を、先生がから見せてもらった。

その男性は、何らかの病気ですでに余命が数ヶ月、とか、長くても、1−2年と医者に言われていたという。それでも、もう一度歩けるようになりたい(たしか)、という希望を持って、治療に通っていたという。先生は、彼の希望が叶うべく、とことん一緒に、ときにはきつい言葉で叱咤激励しながら取り組んだのだと言う。結局、彼は歩けるようになることなく亡くなるのだが、亡くなる前に、先生に件の手紙を書いたのだ。

先生と一緒に、歩くという目標に向かって取り組んでこれた自分はとても幸せだった、治療はとても充実して楽しい時間だった、というようなことが書いてあったそうだ。

僕の記憶はもうあいまいになので、もしかしたら、遺族から、本人は治療に取り組めてとても幸せそうだった、という手紙を受け取ったのかもしれない。

どちらでも僕が言いたいことは同じだ。

余命があとわずかでも、また歩けるようになることを目指して努力することに、意味はあるのか、ということだ。

その労苦とお金を費やす価値はあるのか。まちがいなくある、あった、と僕は考える。

いくつかの言い方がある。

1つは、達成という視点だ。もし明日亡くなるとしても、今日、歩けるようになったら、それは素晴らしい達成である。努力が実ったのだそれは人生最後の努力かもしれないが、だからこそ、貴く、人生の終わりに大きな達成感と喜びを味わうことができた、という価値があるだろう。

 

もう1つは、治療に取り組む時間そのものに価値があるという視点だ。歩けるようになるかもしれない、ならないかもしれない、でも、そうした結果よりも、いま、治療に取り組んでいる、自分の体と対話をしている、何がしかの課題をまだ乗り越えようと賢明に生きている、その、まさに、今生きている、生きようとしている、という濃厚な時間を、治療の中で感じていられたのだとしたら、それも間違いなく価値だ。

 

それから、こう言うこともできるかもしれない。明日死ぬかもしれない、でも、今日の私はまた自分の足で歩けるようになりたい、あの思い出の道を歩いてみたい、海辺を散歩したい、そういった純粋な願望がある。近々死ぬとわかっていても、今日の願望を叶える、今日の憧れを追う、それこそが生きるということそのものなのだ、という開き直り、生き物としてまったく正しい姿勢を、あいまいにならないように、心にきざみながら、1日1日を過ごすことを、やりやすくした。そういう価値があったのかもしれない。

 

これまで生きてきた人生の時間。それも価値だ。思い出、達成、経験、出会い、泣き笑い、葛藤、別れ、喜び、悲しみ、ぜんぶが価値だ。価値を積み上げてきたといえる。晩年にそう感じられる人は幸せだろう。

だが、今日、あるいは明日という一日が、これまでの40ウン年に匹敵する価値と生に対する影響力がある、と思うことができたとしたらどうだろうか。

 

それは、一発逆転という意味ではない。

 

もうそう考えるしかないというときに、そう考えることができるだろうか、という問いだ。

 

過去を振り返っても、これからを支えるに足るエネルギーにならないとき、むしろ体の力を奪っていこうとするとき、未来を見たときに、もうそれほどの希望も感じられず、失ったものを取り返すことが叶わないと完全にわかってしまったとき。

まだ何も失っていないと気づきに打たれる、そんな体験がどうすれば可能なのだろうか。打たれる、は求めすぎかもしれない。少しずつでも、そう感じられていくような、そういう道に足を踏み入れるにはどうすればいいのか、

 

足をとられるように、導かれることはできるだろうか、それともそれはもっと登山のようなものなのだろうか。

 

あるいは、それは歌なのか。そういえば、きっと誰もが何らかのツールを持っている。思い出すのだ。それは自分ではなく、ほかの誰かがにとって忘れられない瞬間として記憶されているかもしれないのだ。

だから思い出すのだ。

本当の瞬間を目撃しているのは、いつだって他人だけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたといるときの私が一番好き

数年に一度くらい、ZARDの曲を聴きながら、惜しい人をなくしたといって夜中に涙するのが恒例となっているわけだが、歌詞の1つが妙に心に残った。

一緒にいるときの自分がいちばん好き

というものだ。OH MY LOVEだ。

一見、恋をしたことがある人なら、誰でもわかる気持ちのような気がするが、よく思い出すと、実はよくわからない、ということに気づいた。

あるいは、こうとも歌われている。

あなたといるときの素直な自分が好き

 

これは、ほかの人の恋愛話では聞いたことがある気がする。あの人いるとき、自分らしい自分でいられた、と言っていた女の子がいた気がする。

これは、その人といるとき、リラックスしていられる、ということなのだろうか。それなら、気のおけない友だちといるときのほうがリラックスできるのではないだろうか。親友はめったなことを俺を嫌いになることなどないとしんじられるからだ。

 

でも、今、書きたいのはそのことではない。書きたいのは、一緒にいるときの自分がいちばん好き、だということについてだ。

誰とは今回は言わないことにするが、生涯に2人、このひとの前に出ると口がきけなくなってしまう、という人がいた。

あれほど会いたい、話したいと思っていたのに、いざ目の前にすると、何を言えばいいか、わからなくなってしまうのだ。いろんなことを聞きたいと思っていたのに、質問することができない。考えてきた質問がばかばかしい、うそっぽいものに思えて、口に出すことができない。また、その質問にどんな答えが返ってくるか、実は期待している答えがあって、ただそれを聞きたいだけなのだということが、その人を前にするとわかってしまって、その人にもバレているような気がして、フリーズしてしまうのだ。

だから、怒ったような顔をして黙り込むことになる。真剣な質問をしようと思えば思うほど、本当は聴くことがない、ことがわかってしまうのだ。

でも、何かを言ってもらいたい、だからその場から去れずにいる。

そういう瞬間が何度かあった。これは、ばかみたいなシーンだが、大事な瞬間だったという気がした。そういうふうに自分をさせる人、場は、めったに出合えないのだ。

 

つまり、一緒にいるときの自分が一番好き、という言葉から、このエピソードを連想したのだが、この自分とは、つまり、無力感でいっぱいの、ふだんの生活をへらへらと生きている自分に嫌気がさすような、このような濃厚な時間をもっと持ちたい、という焦がれるような思いの、そういう時間に立っている自分だ。

 

とはいえ、本当は恋の相手とも、そうした時間に立てるのかもしれない。あとから振り返っても、あれは舞い上がっていただけじゃない、なにか本物の、研ぎ澄まされた、削ぎ落とされた素直な、そういう。

 

 

いや、恋愛はそんなものじゃなくてもいい、という気がする。もっとリラックスして、素直な自分、でもいい。とか。

 

いま、、もう一度戻ろう、やっぱり恋愛のことを今書こうとしているわけではないみたいだ。

 

あの極度の緊張状態を、同時に深い深いリラックス状態とも言えるような気がするんです。

どうせすべてが見透かされている。その安堵。嘘がバレるから嘘をつけない、つかなくていいという楽。

宗教の話じゃないよ。

 

最近、不思議なことにきづいている。こういう話をするとき、日本人に日本語で話すより、外国人に英語で話すほうが、通じることが多い。

おれは英語がうまいと言っているわけじゃない。おれのつたない英語だと、相手は何度も確認しながら、俺の真意を測らなければならない。こっちも最初から通じるとは思ってないから、ちゃんと伝わっているか確認しながら話す。そういうことが、結果的に、こっちの意図することが、そのまま伝わったという実感をもてる結果につながっている。

日本人に日本語で話すと、こっちもしゃべりすぎてどこか脱線したり、ナルシシズムに入ってしまうし、相手は相手で言葉の連想から勝手に別の話に引きつけてしまったり、とにかくものすごい速さで勘違いをしてくれたりする。そして、ぜんぜんピントのずれた自分の話をべらべらとしゃべりだしたりするのだ。。

 

言いすぎたかもしれない。ただ、外国人にも通じた!みたいな素直な感動を言いたかっただけなのかもしれない。

 

でもやっぱり、言語はけむにまくために使われている。それはまぎれもない事実なのだ。そんなふうに使うために言葉を憶えたんじゃない。そう自分にいいたいのだが、このブログがその精神に矛盾していないことを、いま、祈りたい気持ちにヒヤっとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ferociousな虎

2018年はブログを週に一本書こうと誓ってから、3週間が過ぎてしまった。そういうものだ。

2017年は久しぶりに東京に出てきて、とくに何もないと言えばないが、怒涛といえば怒涛な一年だった。急にたくさんの人と知り合いになって興奮し、また疲れもした。

ところで先週、下北沢にジーパンを買いに行った。そのジーンズのデザイナーが来て、フィッティングをしてくれるというので、そういう機会はそうそうないね、ということで出掛けてみたのだ。到着すると、6人ほどの待ちリストができていた。どのくらい待ちますか?ときくと、店員が、いやーわかりません。と言う。10分で終わる人もいれば、人によっては30分ほどデザイナと話していかれる人もいますので、という。ほう、と思う。そうなると、最大で3時間待ちということだ。とても待てないかも、と思いながらも、一応リストに名前を書いた。

だけど、そんなふうにひとりの客に時間をかけてくれるなんて、やっぱり買ってみたいな、と思う。本屋でも行って、五木寛之の本でも買って、コーヒーでも飲みながら待とうか、と思い立つ。

目当ての本は売ってなかったが、昔たまに行っていた珈琲屋さんにいってみることにする。ジャズがかかる小さなカフェだ。

日曜日であったが席は空いていた。少しタバコの臭いがきになったが、ジャズがかかる店が禁煙ではおかしいわな、と思い直して、席についた。コーヒーを注文すると、あ、そういえば、と思い出す。この店で、面白い本を読んだ。バナナフィッシュを読破したのもこの店のこの席だった。でも、面白い本というのは別の本だ。

キース・ジャレットのインタビュー本だ。ふと本棚を見ると、まだそこにそれはあった。

面白い本だったという記憶だけで、表紙をめくってみた。やっぱり面白かった。

キースはこんなふうなことを語っていた。演奏しているとき、ferociousな欲望を探しているのだ、というような。ferociousは虎だ、とキース言う。ferociousは英語で「獰猛な」という意味がある。虎は怒っているわけではない。虎はferociousなだけだ、と。

なんだかわからないが、ただならぬことを聞いてしまった、という気がしてくる。キースは、ふだん人びとは、自分を含めて、眠っているという。ほんのひとときしか、目覚めていない。目覚めていたい、という欲望がすべてなんだ、というようなことを言っていた(たしか)。

 

あ、と思う。そうだ、このくだりをあの時も読んでいた。まだいろいろな怪しい知識を入れていない僕が、読んでいた。15年前、ここで。

この本の中で、「スポンテニアス」という言葉と出会い、それをネットで検索して、あるサイトにたどり着いたところから、僕のおかしな旅は始まるのだが、それはずっとむかしにブログに書いた気がするので、今回は書かない。

僕の中では、あのおかしな旅はもう終わったという気がしている。それほど強くひかれることもなく、おかしな本も読まなくなった。

だけど、このキースのインタビューは、まだ、何かがうずいていることを、知らせているようだった。

そうか、ここから始まったんだな、と感慨に浸ろうとした瞬間、携帯が鳴った。順番が来ました、とのこと。まだ喫茶店に入って5分しかたっていない。5分ほどで行きますと答えて電話を切ったが、まだコーヒーも来たばかりだし、キースも開いたばかりだ。間にひとり入れてください、と言おうと電話をかけ直すが、出ない。

まあ、多忙なデザイナーを待たせるのもいかがなものかと思い、また、いま動かないとジーパンが買えなくなるかもしれない、という胸騒ぎもして、すぐに席を立つことにした。

コーヒーはとっても美味しかった。

ジーパンは買えた。いつもバカみたいにオーバーサイズを買ってあとで後悔する、あるいは、逆にピチピチを攻めすぎて1回履いて挫折する、を繰り返してきた僕は、ジーパンを買うのに恐れを抱いていたが、今日は専門家が選んでくれるというので、大船に乗った気分だった。

ジーパンはは着心地がとてもよく、不思議だった。いつも、窮屈な思いをしたくないから、オーバーサイズを買ってしまうのだが、不思議とジャストサイズでも、そんなに嫌な感じにならずに履けている。まだ、何度も履いてみないとわからないが、もし、この感覚が正しいのだとしたら、とてもうれしい。

なにせベルトがいらないのだから。本当に履き続けられるだろうか。最初の興奮が醒めたら、キツすぎるよ、履けるかこんなの、ってなりはしないだろうか。そんなかすかな不安をいだきながらも、うれしさを噛み締めている。

虎を、ferociousな虎を、感じたい。それがもしかすると、原点だったのかもしれない、と思った。当時は、逆のことを考えていた。心の平穏をどうやって取り戻すか。どうすれば安心立命の境地に到れるのか。でも、やっぱり、生きるということは、ferociousな虎なんだと、思うし、思いたいのかもしれない。

今年が虎年だったら、このブログも収まりがいいのに、と思ったが、そうもうまくはゆかない。

そうだ、前回捕まえたことばは、ferociousではなく、longingのほうだった。キースはlongingな欲望と言い換えてもいい、と言っていたように覚えている。longingとは憧憬、憧れだ。

憧れもいいが、今は虎を見てみたい。

結局、と思う。15年たっても似たようなブログを書いている。似たようなことに引かれていく。違いがあるとしれば、今は、なんだかバカバカしいね、という感覚が、すぐ横に立っていることだ。なにが虎なんだか、ぷぷぷぷぷ。

なんてことを言いながら、現実に対応していかなくちゃいけない。虎は現実にしっかりと対応している、というか、生き抜くために、虎は虎なのだから。だから、俺は、虎じゃない。でも、虎が生命そのものである可能性もあるのだから。。。

わけがわからなくなってきた。火星に水がたくさんあるというニュースを見たからかもしれない。なら、生命は確実にいるんじゃないの!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

予感とさわやかさ

昨年から資料集めを手伝っていた吉福さんの本が、来年、出版見込みという話を聞いた。図書館でコピーしまくったかいがあった。

しかし、不思議なもので、まだ出版されるまでは油断できないのだが、頼まれて資料を集め始めたときは、本当に出版されるか、50%くらいしか思っていなかった。だけど、不思議なもので、とりあえず始めたことで、コンプリートさせたいという気持ちが芽生えてきて、最後のほうは、手に入るあてがあるものを手に入れないことがなんだがもどかしい、というコレクターのような気持ちになっていた。福岡の古本屋から若干プレミアつきの80年代の雑誌を取り寄せたのに、ほかの本からの転載しただけの1ページの記事があるだけなのを発見して、「この、バブルに乗じてイケてる感だけで売ってたクソ雑誌が!」と罵倒したりしていた。同じわずか1ページでも、掘り出し物もあった。名前を出そう。「別冊宝島」だ。何冊が入手したが、どの号もすばらしい、少なくとも面白い記事を載せていた。

クソみたいな雑誌の名前はふせておこう。有名なおしゃれ雑誌です。

 

みたいなことがありながら、集めに集めた資料から、編集者が厳選した原稿案を見せてもらいながら、よくわかんねえ、って気持ちになっていた。

よくわかんねえ、のは、僕が吉福さんにどうしてこれほど関心を持っているのか、ということだった。言えそうで言えない、いかがわしそうで、まっとうそうで、理由がうまく掴めない。

 

何度も書いてきたことではあるが、吉福さんを最初にはっきり意識したときのことを覚えている。入り口は本だった。どの本が最初だったかは忘れてしまったが、まずは本を読んで、面白いことを言うひとがいるなあ、と思っていた。だけど、まだ、たくさんあるその手の本の著者のひとり、という域を脱していなかった気もする。1つ抜けたのは、知人の家で吉福さんの本を見つけて、あ、これ知ってる、と言ったとき、その知人が吉福さんの旧知だったらしく、「あ、吉福さんね、セラピストやめて、ハワイでサーファーになっちゃったよ。そういう人なんだよ」と笑ったときだ。

そのとき、「おっ」と思った。「へえ」と思ったのかもしれない。

頭のなかに、サーフボードを抱えてハワイの風に吹かれている、まだ写真も見たことがなかった吉福さんのイメージが浮かんだ。

僕はそのとき、ハハハ、変わった人ですね、みたいな返答をしたと思う。だけど、そのとき、「へえ、それっていいじゃん」という感じがあったし、なんだか信じられるね、という感じもあったし、ハハハと乾いた笑いが自分から出たことも、喜ばしいことに感じた。胸の中にさっと風が吹いたような感覚があったような、なかったような。

そのとき、今思えば、予感めいたもの、きっとこの人と会うことになる、あるいは、自分は近づいていくことになる、と、熱くではなく、切実でもなく、切望でもなく、ただ、ぼんやりとさわやかに感じていた気がする。

 

記憶はあとづけで編集されるものだから、断言はできない。が、そんなことがあった気がするし、本当にそういうことがあったかどうかは、もはや重要ではない、という気がする。そういうふうにぼくのなかにストーリー化されている、ということだ。

 

でも、ある意味、後々に実際に会った吉福さんは、あのとき、さわやかにハワイの風とともにイメージした人とは、まるで違う、真逆のような人であった気もする。するし、いや、むしろイメージどおりだったともいえるような気もする。

 

というように、吉福さんのアンソロジー本に関するミーティングに出かけようと、井の頭線に乗っていた、先週のことである。

僕は最近話題の哲学の本を、シャープペンシルで線を引きながら、読んでいた。かなり真剣に読んでいたように見えたはずだ。

その車両に、5−6歳くらいの子どもたち10人ほどと、引率の大人数人がドヤドヤと乗り込んできた。

すると、間髪をいれず、1人の男の子が、何の迷いもなく僕の目の前に立ち、何の迷いもなく、開いている本の「表紙」を覗き込んだ。座っている僕が膝の上で開いている本の表紙を覗き込むわけだから、子どもといえど、ものすごく首を曲げて、あからさまに覗き込まないと覗けない。覗き込んできた。僕は「あっ」と思った。「やられたっ」と思った。

うれしかった。いきなり間合いに入られる、ある種の快感があった。もちろん、相手が大人だったら怖かったかもしれない。子どもだから、ほほえましかった。

そんなに表紙が見たいのかと思い、表紙を見せてあげたら、すすすっとあっちへ行ってしまった。「やるじゃん」と思う。好き放題だ。本に目線を落とし、また線を引き引き読み始めると、こんどは、「ぼくはエビフライ! わたしはそのとなりのしかくいやつー!」などと目の前あたりが騒がしくなっていて、目を上げると、子ども3人が熱い視線を僕の頭のすぐ上あたりに注いでいた。振り返ると、そこに何かの広告が貼ってあった。ぼくの頭の裏だ。だから、子どもたちの目線は、ほとんど、僕の頭にもぶつかってくる。おれはどうしていいかわからず、本に目線を落とし没頭し、集中しているようなそぶりを見せたが、子どもたちは一歩も引く気がないらしかった。

これでは本なんか読んでられない、うんよくとなりの席があいたので、1つズレてあげた。これで広告見放題だ。やれやれ、と思っていたら、こんどは僕があけたその席に、さっき表紙を覗いてきた男の子が、早速乗り込んできた。広告はもういいのか?? すると、そのとなりに、女の子も乗り込んできた。1つの席スペースに2人座ったということだ。ふと目を上げると、3人目の女の子が、さみしそうな目で、僕と子どもたちのすき間のスペースをみつめている。僕が少し身をよじれば、座れないこともない。しかたがないから、逆どなりが若い男だったにもかかわらず、僕はそちらに少し身を寄せ、すき間をあけた。

そこまでしたのに、こんどはその女の子は躊躇しているようだった。お友達も、ここに座り、と言ってあげない。若い男に身を寄せた俺がバカに見えるじゃないか! 僕はもう仕方がないから、ここにお座り、というジェスチャーをするしかなかったのだった。

 

果たして、女の子は僕のとなりに出来たすきまに、ものおじしながら座った。見やると、下を向き、身を固くしていた。ぷるぷると緊張で体が震えているようにさえ見えた。なんか悪いことしたかな、本当は座りたかったわけじゃないのかも。。ちょっと気まずい気持ちになりながら、こんなに全身全霊で緊張できるなんて、こどもってやっぱりかわええ、と思わざるをえなかった。

そして、しばらくして、彼らはまた、ドヤドヤと出ていった。振り返りもせずに。。。「やられた」 蹂躙された。もう僕は哲学の本に戻ることができなかった。こんなこむつかしいこと、どうでもええわ、本当のこと言えば、と思えてきた。

 

だけど、悲しいことに、また、ひとりになり、考え事をして、気持ちが煮詰まってくると、哲学の本を開いてしまうのだった。どうでもいいことは、わかっているのにな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フレッシュ

最近、ボルダリングをはじめた。前から気になってはいたが、基本的に筋肉に自信がない僕は、きっと苦手でつまらないだろうと敬遠していたのだ。

しかし、そうではないのだ。たとえば昨日などは、僕よりいくらか年上だと思われる女性の方たちがいて、こういう人もがんばってボルダリングやろうとしてるんだな、ほほえましいな、と思っていたら、僕の何級も上の何度の壁を、すいすいと登っていってしまった。よく見たら、手にテーピングをぐるぐる巻いている。ベテランさんだった。

しかし、どう見てもさすがに体力、筋力ともに俺のほうが上だと思われるのに、同等どころか、何段階も上をいかれてしまうと、おやおや、おだやかじゃないね、となる。

その横では、こんどおれより一回り、いや、二回り若いかもしれない男の子が、壁にしがみついている。腕をぷるぷるいわせてがんばっていたが、途中で断念してズリ落ちていた。

そう、筋力ではないらしいのだ。技術なのだ。

不思議でならなかった。壁をよじ登っていくとは、結局のところ、握力、腕力、背筋力、腹筋、指の力の総合力なのだと頭は考える。だが、現実は違う。

かなりご年配に見える方々も、スイスイと壁を登っていく。そんなバカな。同じ壁をおれは、5秒ととりついていられないというのに。

 

そして、こういうこともあった。

前回どうしてもクリアできなかった壁があって、その日も5−6回チャレンジして、だめだった。退屈になってきていた。つまらない、と思い始めていた。

だが、友人が同じ壁(というか課題)をスイスイと登るのをみて、あ、やっぱりできるはずなんだ、と思い、再度チャンレンジしたら、できたのだ。

できたときには、あれ?こんなに簡単だったっけ?という感じで、筋肉がぷるぷるすることもなく、スイスイーと登れた。ああ、みんなこれをやっているのか。この感じなのか、と感動する。ガッツポーズが出た。にわかに、ああ、楽しいな、これ、と一瞬で気分が反転した。

分析するとこういうことらしい。そのとき、成功したときは、足を手のすぐ下ぐらいにまでひきつけて、そのまま伸び上がるようにして一気に登って難所をクリアしていた。

だが、2度、3度、と同じ課題を登ってみるのだが、不思議なことが起きる。その難所のところにくると、頭は「無理だ」と判断している。だが、しぶしぶ足を手の近くまで高く引きつけ(そこしか足の置き場がないのだが)、つまり、すごく縮こまったカエルみたいなかっこうになって、さあ、ここからどうする、もう動けないぞ、と頭は思うのだが、しょうがないから、はるか頭上に見える(それでもそれが最寄りの)とっかかりに手を伸ばしてみると、なんと届くのだ。もちろん、「手」が届いているのではなく、体全体が伸びることで、手がとどくのだが、体全体を伸ばす時に、バランスを崩して完全に落下すると頭は思うのだが、それが、なぜか落ちないのだ。

何度か成功しても、また頭は、「無理だ」と判断しているところが面白い。4度目くらいになってやっと頭も、「無理だと一瞬おもうけど、実際はできるでしょう」、と言ってくれるようになった。

これ、30分前の俺から見たら、「おまえすげーな」という状況だ。

だから、論理的に考えれば、あの、ご年配の方々がすいすい登っている課題、おれは、その何段階もレベルが下の壁をズリ落ちているのだが、その上のレベルの壁も、いずれは、おれは、踏破する、というのが、なんと、これが、論理的な結論なのだ。

わかるだろうか。まず、ご年配の方々(この、方々というのが大事で、たったひとりなら、スーパーおじさんかもしれないからだ)よりも、俺が体力的に劣るとは考えづらい。また、彼らが、みんな元、山岳スペシャリストだった、ということでもなさそうである。べつにご年配をみなくても、基本、その場にいる人たちは、老若男女、20人ほどいたが、全員、俺より上のレベルの課題をクリアしているのを、おれは目撃している。彼らもおそらく、1〜2年前は素人だったはずだ。

で、そういうふうにみんなができていることを、俺だけができない確率はそれほど高くない。そして、今日、難関だった課題を自分がクリアしてしまったのを考慮にいれると、これと同じことが、これからも続くと考えるのが妥当だ。つまりレベルは少しずつアップしてくだろう。

ということは、その演繹としても、おれも、あの、何段階も上の、現時点の俺からみたら、「絶対にムリ」と思える壁を、数年後には踏破している可能性が高い、ということなのだ。そんなバカな。

もちろん、続けられたら、という条件はつく。飽きてやめてしまったら、そこまでだ。

 

それがとくに難しくもないストレートな論理の帰結なのだが、それでも、彼らを眺めていると、いやーー俺にはムリ、としか思えてこないところが、面白いところだ。

しかし、これは面白い。できない、絶対にムリと思うことが、実はできる。ないと思われる方法が実はある。それを体で探り、体で身につけていく。そういう行為なのだ。

だが、俺はおそらく、飽きてしまうだろう。それは性格なのだ。だが、せめて飽きるまでは、この、頭と現実のギャップを楽しもうと思った。

 

そして、カフェに入ったときのことだ。

新人研修をしているようで、10代とおぼしき女の子が、いろいろ指示を受けている。おそらく初日ぐらいで、水の出し方から指導されている。

横目で見ながら、仕事に集中してたら、ふと、横に誰かが立った。見上げると、その女の子だった。

「お水のおかわりはいかがでしょうか?」

満面の笑みで、文字通り、目がキラキラと輝いていた。(本当に輝くんだ…)

思わず、みとれて、「あ、お願いします」と妙にかしこまって言うことになる。

言い訳ではないが、俺が見とれたのは、その輝きにだ。

好みのタイプというわけではない。だが、ドキっとするほどの、輝きがあった。

それは、フレッシュネスだった。

それは、年齢ではない。若さだけが理由ではない。それは初日、もしかした初めて客に水を注ぐ、そんな瞬間にしか表れ得ない、フレッシュネスなのだと思う。

おそらく、初めてすぎて、調整ができなかったのだ。ビジネススマイルがまだわかっていないのだ。

だから、それが「本物の」笑顔だとは言わない。客用の笑顔には間違いないが、ただ、調整を間違えている。過剰に笑顔を発散してしまった、そういう笑顔なのだ。ちょうどいい頃合いがわからないから、全力で笑顔をつくるしかなかった、そしたらこうなった、という笑顔だった。

僕たちがアイドルを応援したくなるのは、こういう瞬間なのだと思った。

おそらくその子も、あっという間にちょうどいい程度の笑顔を身につけて、感じはいいけど、とくに感動はない、という笑顔を繰り出すようになるのだろう。つまり、輝きは失われる。だが、それでいい、毎日、毎回、輝いていたら、へとへとになってしまうだろう。それは極度の緊張の裏返しであるからだ。

 

昨日、ボルダリングでぼくは、フレッシュな感動を覚えた。30分前まで無理だと思っていた課題を突破することができた。この喜びのことだ。それは課題を突破しただけでなく、無理だと思っていたものを突破したというポイントが加算された喜びだ。それを忘れないためにこのブログを書いた。来週はまだ飽きてないことを祈りながら。。

 

 追伸:

そのカフェでは、2時間ほど仕事をしていたのだが、その間に、その輝きの子が、最初に水を注いでくれた20分後くらいに再度水を注ぎにきた。水は半分ほど残っていて、おれは喉がかわいていなかったが、もちろん、「あ、おねがいします」した。もちろんだ。そして、その20分後にまた輝きがやってきて、水は7割ほど残っていたが、おれが「あ、おねがいします」したのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いてもたってもいられない

誰だったか、保坂和志だったか、橋本治だったか、本当にいい文学は、読んだ人を、いてもたってもいられない気持ちにさせる、というようなことを書いていた。

なんだかわからないけど、何かをせずにはいられない気持ちになるということだろう。さっき、前川さんの記者会見をLIVEで見ていたら、あまりに主張が合理的でわかりやすかったので、なんだ、家計学園問題の何が問題なのかってけっこうわかりやすい問題なんじゃないの?と思った。そして、なんだか、すこし、いてもたってもいられない気持ちが芽生えた。少し。

でも、本当はこの記事を書かせたのは、原田知世が歌う、「夢の人」であることは明らかである。この歌を聞いていたら、少し、いてもたってもいられない、気持ちになってきた。

誰かがこの曲を選び、誰かがこのアレンジにしようと決めたのだ。どこかで誰かが、素敵なものをつくろうと知恵と経験をしぼっている。

人間は耽溺できないようにつくられている。

いま、この曲が素晴らしいと思って、浸りこみ、ある気分になれて、ずっとこれを聞いていたい、と思ってリピートしていても、100回も聴く前に、効果が薄れてしまう。あの気分がどこかへ行ってしまう。ただのBGMに近づいていく。

あらゆる幸福の瞬間がそうであるように思う。どの瞬間も、その瞬間にとどまり続けることができないから瞬間なのだ。

人類が5千年くらいだろうか、無数の創造を行ってきたが、まだ究極の一曲は登場していない。万人がこれさえ聞いていれば、ずっと永遠に幸せ、といいような音楽だ。おなじように、究極の小説も、究極の格言も生まれていないと思う。特定のときに、特定の範囲に人に、特定の効果を、特定の時間だけ及ぼすことができるものが、あとからあとからつくられていくばかりなのだ。

天使のようだった子どもも、小生意気な小学生になってしまう。

鏡のなかの自分も、昔の自分ではなくなっている。

今回、勝負ではないが、勝負だとすれば、前川さんの勝ちだ。少なくとも、前川さんの会見を見ていると、なんだか少し、いてもたってもいられなくなるような気がしてきた。安倍さんの会見には、みじんも心が動かなかった。それはもう、負けなのだ。言葉の力の差が歴然としている、とそんなことを思った。

 

映画「メッセージ」を見に行ったという友人が、最後のところで、知らないうちに泣いていたと言った。うらやましかった。それが感動というものだ。僕は涙は出なかった。泣いたから感動ではなく、知らないうちに、というところに嫉妬する。むかし、ある映画のキャッチコピーで、「悲しみは加速する。涙は追いつかない」的なものがあったが、そういうことなのだ。

自覚意識が追いつかずに心が(体がと言ってもいい)が反応している。もう感動している。