2つの価値

ずいぶん前、フェルデンクライス体操というものを習っていたときのこと。オランダでフェルデンクライス体操を使って、身体に問題がある人を治療している先生のところで治療の様子を見せてもらったことがある。

その先生のところは、医者がサジを投げたような、治療困難な患者が送り込まれてくる感じだった。

たとえば、背骨が(正確にいると背筋が)曲がっていて、このままだと今後の成長に支障が出るから背骨にボルトを入れましょうと医者に言われ、それがいやだと言って治療に来てい10代の女の子がいた。

僕が見学させてもらった日、彼女はやってきて、今日の体育の授業で、みんなができる動きが自分にはできなかったと訴えていた。

肘を90度にまげ、がんばるぞ!みたいなポースをとったあとに、そのまま胸を張るように肘を開いていく、という動きができないようだった。実際、その場でやってもらうとできなかった。

フェルデンクライス体操、あるいはその先生がすごいのは、その日、その場で、その動きができるように彼女を導いてしまった。

骨がゆがんでいるのではなく、骨を引っ張る筋肉に無駄な緊張や、アンバランスな力が働いて、体を思うように動かせなくなっているというような感じだった。先生は、だから、ボルトを入れなくても、筋肉のほうにアプローチしていけば背筋が戻るんじゃないか、というような見立てをしているようだった。

 

今日は話したいのはその患者のことではない。

 

これは、当時も感慨とともにブログに書いた記憶があるが、すでに亡くなったとある男性患者の人からもらったという手紙を、先生がから見せてもらった。

その男性は、何らかの病気ですでに余命が数ヶ月、とか、長くても、1−2年と医者に言われていたという。それでも、もう一度歩けるようになりたい(たしか)、という希望を持って、治療に通っていたという。先生は、彼の希望が叶うべく、とことん一緒に、ときにはきつい言葉で叱咤激励しながら取り組んだのだと言う。結局、彼は歩けるようになることなく亡くなるのだが、亡くなる前に、先生に件の手紙を書いたのだ。

先生と一緒に、歩くという目標に向かって取り組んでこれた自分はとても幸せだった、治療はとても充実して楽しい時間だった、というようなことが書いてあったそうだ。

僕の記憶はもうあいまいになので、もしかしたら、遺族から、本人は治療に取り組めてとても幸せそうだった、という手紙を受け取ったのかもしれない。

どちらでも僕が言いたいことは同じだ。

余命があとわずかでも、また歩けるようになることを目指して努力することに、意味はあるのか、ということだ。

その労苦とお金を費やす価値はあるのか。まちがいなくある、あった、と僕は考える。

いくつかの言い方がある。

1つは、達成という視点だ。もし明日亡くなるとしても、今日、歩けるようになったら、それは素晴らしい達成である。努力が実ったのだそれは人生最後の努力かもしれないが、だからこそ、貴く、人生の終わりに大きな達成感と喜びを味わうことができた、という価値があるだろう。

 

もう1つは、治療に取り組む時間そのものに価値があるという視点だ。歩けるようになるかもしれない、ならないかもしれない、でも、そうした結果よりも、いま、治療に取り組んでいる、自分の体と対話をしている、何がしかの課題をまだ乗り越えようと賢明に生きている、その、まさに、今生きている、生きようとしている、という濃厚な時間を、治療の中で感じていられたのだとしたら、それも間違いなく価値だ。

 

それから、こう言うこともできるかもしれない。明日死ぬかもしれない、でも、今日の私はまた自分の足で歩けるようになりたい、あの思い出の道を歩いてみたい、海辺を散歩したい、そういった純粋な願望がある。近々死ぬとわかっていても、今日の願望を叶える、今日の憧れを追う、それこそが生きるということそのものなのだ、という開き直り、生き物としてまったく正しい姿勢を、あいまいにならないように、心にきざみながら、1日1日を過ごすことを、やりやすくした。そういう価値があったのかもしれない。

 

これまで生きてきた人生の時間。それも価値だ。思い出、達成、経験、出会い、泣き笑い、葛藤、別れ、喜び、悲しみ、ぜんぶが価値だ。価値を積み上げてきたといえる。晩年にそう感じられる人は幸せだろう。

だが、今日、あるいは明日という一日が、これまでの40ウン年に匹敵する価値と生に対する影響力がある、と思うことができたとしたらどうだろうか。

 

それは、一発逆転という意味ではない。

 

もうそう考えるしかないというときに、そう考えることができるだろうか、という問いだ。

 

過去を振り返っても、これからを支えるに足るエネルギーにならないとき、むしろ体の力を奪っていこうとするとき、未来を見たときに、もうそれほどの希望も感じられず、失ったものを取り返すことが叶わないと完全にわかってしまったとき。

まだ何も失っていないと気づきに打たれる、そんな体験がどうすれば可能なのだろうか。打たれる、は求めすぎかもしれない。少しずつでも、そう感じられていくような、そういう道に足を踏み入れるにはどうすればいいのか、

 

足をとられるように、導かれることはできるだろうか、それともそれはもっと登山のようなものなのだろうか。

 

あるいは、それは歌なのか。そういえば、きっと誰もが何らかのツールを持っている。思い出すのだ。それは自分ではなく、ほかの誰かがにとって忘れられない瞬間として記憶されているかもしれないのだ。

だから思い出すのだ。

本当の瞬間を目撃しているのは、いつだって他人だけだ。