あなたといるときの私が一番好き

数年に一度くらい、ZARDの曲を聴きながら、惜しい人をなくしたといって夜中に涙するのが恒例となっているわけだが、歌詞の1つが妙に心に残った。

一緒にいるときの自分がいちばん好き

というものだ。OH MY LOVEだ。

一見、恋をしたことがある人なら、誰でもわかる気持ちのような気がするが、よく思い出すと、実はよくわからない、ということに気づいた。

あるいは、こうとも歌われている。

あなたといるときの素直な自分が好き

 

これは、ほかの人の恋愛話では聞いたことがある気がする。あの人いるとき、自分らしい自分でいられた、と言っていた女の子がいた気がする。

これは、その人といるとき、リラックスしていられる、ということなのだろうか。それなら、気のおけない友だちといるときのほうがリラックスできるのではないだろうか。親友はめったなことを俺を嫌いになることなどないとしんじられるからだ。

 

でも、今、書きたいのはそのことではない。書きたいのは、一緒にいるときの自分がいちばん好き、だということについてだ。

誰とは今回は言わないことにするが、生涯に2人、このひとの前に出ると口がきけなくなってしまう、という人がいた。

あれほど会いたい、話したいと思っていたのに、いざ目の前にすると、何を言えばいいか、わからなくなってしまうのだ。いろんなことを聞きたいと思っていたのに、質問することができない。考えてきた質問がばかばかしい、うそっぽいものに思えて、口に出すことができない。また、その質問にどんな答えが返ってくるか、実は期待している答えがあって、ただそれを聞きたいだけなのだということが、その人を前にするとわかってしまって、その人にもバレているような気がして、フリーズしてしまうのだ。

だから、怒ったような顔をして黙り込むことになる。真剣な質問をしようと思えば思うほど、本当は聴くことがない、ことがわかってしまうのだ。

でも、何かを言ってもらいたい、だからその場から去れずにいる。

そういう瞬間が何度かあった。これは、ばかみたいなシーンだが、大事な瞬間だったという気がした。そういうふうに自分をさせる人、場は、めったに出合えないのだ。

 

つまり、一緒にいるときの自分が一番好き、という言葉から、このエピソードを連想したのだが、この自分とは、つまり、無力感でいっぱいの、ふだんの生活をへらへらと生きている自分に嫌気がさすような、このような濃厚な時間をもっと持ちたい、という焦がれるような思いの、そういう時間に立っている自分だ。

 

とはいえ、本当は恋の相手とも、そうした時間に立てるのかもしれない。あとから振り返っても、あれは舞い上がっていただけじゃない、なにか本物の、研ぎ澄まされた、削ぎ落とされた素直な、そういう。

 

 

いや、恋愛はそんなものじゃなくてもいい、という気がする。もっとリラックスして、素直な自分、でもいい。とか。

 

いま、、もう一度戻ろう、やっぱり恋愛のことを今書こうとしているわけではないみたいだ。

 

あの極度の緊張状態を、同時に深い深いリラックス状態とも言えるような気がするんです。

どうせすべてが見透かされている。その安堵。嘘がバレるから嘘をつけない、つかなくていいという楽。

宗教の話じゃないよ。

 

最近、不思議なことにきづいている。こういう話をするとき、日本人に日本語で話すより、外国人に英語で話すほうが、通じることが多い。

おれは英語がうまいと言っているわけじゃない。おれのつたない英語だと、相手は何度も確認しながら、俺の真意を測らなければならない。こっちも最初から通じるとは思ってないから、ちゃんと伝わっているか確認しながら話す。そういうことが、結果的に、こっちの意図することが、そのまま伝わったという実感をもてる結果につながっている。

日本人に日本語で話すと、こっちもしゃべりすぎてどこか脱線したり、ナルシシズムに入ってしまうし、相手は相手で言葉の連想から勝手に別の話に引きつけてしまったり、とにかくものすごい速さで勘違いをしてくれたりする。そして、ぜんぜんピントのずれた自分の話をべらべらとしゃべりだしたりするのだ。。

 

言いすぎたかもしれない。ただ、外国人にも通じた!みたいな素直な感動を言いたかっただけなのかもしれない。

 

でもやっぱり、言語はけむにまくために使われている。それはまぎれもない事実なのだ。そんなふうに使うために言葉を憶えたんじゃない。そう自分にいいたいのだが、このブログがその精神に矛盾していないことを、いま、祈りたい気持ちにヒヤっとなった。