ferociousな虎

2018年はブログを週に一本書こうと誓ってから、3週間が過ぎてしまった。そういうものだ。

2017年は久しぶりに東京に出てきて、とくに何もないと言えばないが、怒涛といえば怒涛な一年だった。急にたくさんの人と知り合いになって興奮し、また疲れもした。

ところで先週、下北沢にジーパンを買いに行った。そのジーンズのデザイナーが来て、フィッティングをしてくれるというので、そういう機会はそうそうないね、ということで出掛けてみたのだ。到着すると、6人ほどの待ちリストができていた。どのくらい待ちますか?ときくと、店員が、いやーわかりません。と言う。10分で終わる人もいれば、人によっては30分ほどデザイナと話していかれる人もいますので、という。ほう、と思う。そうなると、最大で3時間待ちということだ。とても待てないかも、と思いながらも、一応リストに名前を書いた。

だけど、そんなふうにひとりの客に時間をかけてくれるなんて、やっぱり買ってみたいな、と思う。本屋でも行って、五木寛之の本でも買って、コーヒーでも飲みながら待とうか、と思い立つ。

目当ての本は売ってなかったが、昔たまに行っていた珈琲屋さんにいってみることにする。ジャズがかかる小さなカフェだ。

日曜日であったが席は空いていた。少しタバコの臭いがきになったが、ジャズがかかる店が禁煙ではおかしいわな、と思い直して、席についた。コーヒーを注文すると、あ、そういえば、と思い出す。この店で、面白い本を読んだ。バナナフィッシュを読破したのもこの店のこの席だった。でも、面白い本というのは別の本だ。

キース・ジャレットのインタビュー本だ。ふと本棚を見ると、まだそこにそれはあった。

面白い本だったという記憶だけで、表紙をめくってみた。やっぱり面白かった。

キースはこんなふうなことを語っていた。演奏しているとき、ferociousな欲望を探しているのだ、というような。ferociousは虎だ、とキース言う。ferociousは英語で「獰猛な」という意味がある。虎は怒っているわけではない。虎はferociousなだけだ、と。

なんだかわからないが、ただならぬことを聞いてしまった、という気がしてくる。キースは、ふだん人びとは、自分を含めて、眠っているという。ほんのひとときしか、目覚めていない。目覚めていたい、という欲望がすべてなんだ、というようなことを言っていた(たしか)。

 

あ、と思う。そうだ、このくだりをあの時も読んでいた。まだいろいろな怪しい知識を入れていない僕が、読んでいた。15年前、ここで。

この本の中で、「スポンテニアス」という言葉と出会い、それをネットで検索して、あるサイトにたどり着いたところから、僕のおかしな旅は始まるのだが、それはずっとむかしにブログに書いた気がするので、今回は書かない。

僕の中では、あのおかしな旅はもう終わったという気がしている。それほど強くひかれることもなく、おかしな本も読まなくなった。

だけど、このキースのインタビューは、まだ、何かがうずいていることを、知らせているようだった。

そうか、ここから始まったんだな、と感慨に浸ろうとした瞬間、携帯が鳴った。順番が来ました、とのこと。まだ喫茶店に入って5分しかたっていない。5分ほどで行きますと答えて電話を切ったが、まだコーヒーも来たばかりだし、キースも開いたばかりだ。間にひとり入れてください、と言おうと電話をかけ直すが、出ない。

まあ、多忙なデザイナーを待たせるのもいかがなものかと思い、また、いま動かないとジーパンが買えなくなるかもしれない、という胸騒ぎもして、すぐに席を立つことにした。

コーヒーはとっても美味しかった。

ジーパンは買えた。いつもバカみたいにオーバーサイズを買ってあとで後悔する、あるいは、逆にピチピチを攻めすぎて1回履いて挫折する、を繰り返してきた僕は、ジーパンを買うのに恐れを抱いていたが、今日は専門家が選んでくれるというので、大船に乗った気分だった。

ジーパンはは着心地がとてもよく、不思議だった。いつも、窮屈な思いをしたくないから、オーバーサイズを買ってしまうのだが、不思議とジャストサイズでも、そんなに嫌な感じにならずに履けている。まだ、何度も履いてみないとわからないが、もし、この感覚が正しいのだとしたら、とてもうれしい。

なにせベルトがいらないのだから。本当に履き続けられるだろうか。最初の興奮が醒めたら、キツすぎるよ、履けるかこんなの、ってなりはしないだろうか。そんなかすかな不安をいだきながらも、うれしさを噛み締めている。

虎を、ferociousな虎を、感じたい。それがもしかすると、原点だったのかもしれない、と思った。当時は、逆のことを考えていた。心の平穏をどうやって取り戻すか。どうすれば安心立命の境地に到れるのか。でも、やっぱり、生きるということは、ferociousな虎なんだと、思うし、思いたいのかもしれない。

今年が虎年だったら、このブログも収まりがいいのに、と思ったが、そうもうまくはゆかない。

そうだ、前回捕まえたことばは、ferociousではなく、longingのほうだった。キースはlongingな欲望と言い換えてもいい、と言っていたように覚えている。longingとは憧憬、憧れだ。

憧れもいいが、今は虎を見てみたい。

結局、と思う。15年たっても似たようなブログを書いている。似たようなことに引かれていく。違いがあるとしれば、今は、なんだかバカバカしいね、という感覚が、すぐ横に立っていることだ。なにが虎なんだか、ぷぷぷぷぷ。

なんてことを言いながら、現実に対応していかなくちゃいけない。虎は現実にしっかりと対応している、というか、生き抜くために、虎は虎なのだから。だから、俺は、虎じゃない。でも、虎が生命そのものである可能性もあるのだから。。。

わけがわからなくなってきた。火星に水がたくさんあるというニュースを見たからかもしれない。なら、生命は確実にいるんじゃないの!!