読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ニューサイエンス

久しぶりに哲学の会に参加した。

図書館で集めてきた吉福さんの記事のコピーを編集者に渡した。無事、本になるといいなあ。しかし、こういう作業は嫌いじゃないかもしれない。今回の記事集めを通して、吉福さんが何をやろうとしていたのかが、わりとわかった気がした。

最初の方は、いわゆるニューサイエンスを日本に紹介しようとしていたようだ。そういえば、ぼくも100匹目のサルだとか、そういうことにすごく関心があったときがある。それは今、かなり薄れている。どうしたのだろう。

そういえば、思い出す。学生時代、ぼくは地球科学科というところにいて、地球のことに関心があった。そのとき、ガイア理論について書かれた本を持っていたのを覚えている。地球を1つの生命体としてとらえるものだ。そのころは、もちろん、吉福さんもニューエイジも何も知らない。

そういえば、当時、波動の科学、みたいな本を書店で買ったのも覚えている。今思えば、ニューサイエンスに属する本だと思う。だから、特に意識もしないうちから、そっちのケがあったということだ。

そういえば、大学一年で学科を選ぶとき、ぼんやりとこんなことを考えていたのを覚えている。鉱物を含めて、生命や物質には、なんらかのまだ知らない法則、あるいは神秘が隠されているのではないか?そういうことを解き明かしてみたい、みたいな感じ。

真剣な気持ちではなかったが、この世、この宇宙がどこか不思議な秘密があって、自分はまだそれを知らないのだ、という感覚があった気がする。18歳のときだ。

だから、多少怪しいことも含めて、なんでもできそうな地球科学科に進んだのだ。だが、結局、大学では何もしていない。

でも、自分にはもともとそういうところがあったことを、今、思い出している。

もうあのころから、吉福さんとの接点は始まっていたのだ。

だが、悲しいのか、なんなのか、今の僕は、もうあんまりそうした神秘に関心をいだいていないようなのだ。

もう、そうした本を開いても、わくわくしない。

脳天気な学者もいたもんだな、ぐらいにしか思わなくなっている。

でも、どこかで、イライラした気持ちがあって、どうして、こうした神秘をもっとちゃんとした学問にしてくれなかったのか、できなかったのか、と先人と、自分にイラだつような感覚もなぜだか、ある。

その間にも科学は着実と進歩した。イーロン・マスクが火星に行こうとしている。iPS細胞で再生医療が実現しようとしている。人工知能が碁のチャンピオンを打ち負かした。科学とテクノロジーは、びっくりするスピードで進んでいる。

でも、あのとき、18歳のぼくが感じた、心の奥がわくわくするような科学は、完全に撤退してしまったようだ。

 

たとえばこういうことなのだ。人工知能の発展、と聞くと、ぼくはどこか緊張する。それはぼくから仕事を奪うかもしれない。人間としての自由や尊厳を奪うかもしれない。火星にロケットがいく。手放しでは喜べない。また火星を取り合う戦争が起きるかもしれない。というか、火星に住みたいとは思わない。

そういうことよりも、宇宙と自分が一体であることが、心の底から腑に落ちるような、そんな科学が出てくるのかな、と期待していたのだろう。心細い生き物だ。これでいいんだ、絶対に大丈夫だ、という確信が欲しい。

ぼくはニューサイエンスにもニューエイジにも遅れて、そのリアルタイムの盛り上がりを享受していない。LSDにも、ラブ&ピースにも、バブルにさえも遅れてしまった。

青春時代をラブ&ピースのなかで過ごした人たちは、おじさん、おばさんになっても、たとえビジネスで成功していても、隠れヒッピーのように、通底する思想を共有するという。ジョブズもそうだったのかもしれないが、そういうことがうらやましい。

もう、ニューエイジにも、ニューサイエンスにも、トランスパーソナルにも乗れない。夢を見させてくれるものは、もうないのか。

残念な傾向をもった人間として、生きていくことになりそうなのが、なんとも悔しい。

18歳のぼくも、なんだかんだいって、時代の空気を吸っていたのかもしれない。

そういえば、そのあと、新宿にたむろしていたというヒッピー集団「部族」というものに関心をもち、ずっと調べていたこともあった。24−5歳のころである。当然、吉福さんとは出会っていない。

結局、そういう傾向がぼくにはあったのだ。残念なことに。。

最初にいった海外旅行がインドだった。そう、そういうことなのだ。

だが、もうヒッピーに夢を見ることができなかった。

かわりになるものも見つからなかった。

だから、こんなふうに今、しているのだ。

もうどうでもいい、ただ、なんとか生きていこうというだけなのだ。

この傾向を抱えて。

だが、それだけではない。僕の中には両面がある。ヤッピーの傾向だってしっかりあるのだ。

おっと、自分のことを書くつもりじゃなかった。

昨日、哲学の会に行って、存在論のことを考えていた。

哲学のパラドクスとは、ぼくにとっては、不可思議な知的ゲームに、すぎない。

あれれ、考えても、考えても、よくわからない。不思議だね、という。でも、そんなのとまったく関係ないところで、生活を営むことが完璧にできる。

でも、そうじゃない人もいる。パラドクスにとりつかれ、パラドクスの解決に生涯をささがてしまった人がいる。

哲学のパラドクスがそれほどまでに自分の問題にある、抜き差しならない、切実な問題になるとは、どういうことなのだろう。それはいったいどういうことなのだ、そこには関心を向けることができるかもしれない、と昨日、思った。

それは自分にヒントをくれるかもしれない。

そう、結局は、自分のことだ。