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駅巡り

 Facebookで2012年の今日、なにしてた、みたいな写真が出てきた。バリ島にいたらしい。

5年前、バリ島におりたったとき、朝起きてすぐに海を見にいった。観光客のいない海で、びっくりするくらい静かで、風の音だけがかすかにそよいでいた。空があまりにも青くて、広くて、昨日までの喧騒が遠い過去のように思えた。どうしてこんなところにいるんだろう。

逆に、どうしてあんな騒がしい場所にいたんだろう、と日本での生活を思ったりした。ここで、この静けさを基盤としながら、作戦を建てよう。人生を立て直そう、みんなも呼ぼう、楽しく生きられる作戦会議をしよう、そんなことを考えた。

5年後、ぼくは最も騒がしい街東京に舞い戻っていた。どうしてこうなったんだろう、あの旅は、あの逃避行はなんだったんだろう、あのとき、作戦はたてられたのだろうか? 

クタの朝、バイクを走らせて海へ向かうとき、今日の波はどんなだろう?と胸踊らせているとき。バリの空は青すぎる、と感動しているとき、あるとき、今、死んだって、そんなに後悔しないな、とそこまで思った日もあった。

だけど、ぼくは東京にいる。いったいどういうことだ。なんでまた、逃げ出したはずの場所にもどって、それでもなぜか、ほっとしたような気持ちになっている。

春だからだろうか。今日、ふと一瞬、この春がずっと続けばいいのに、と思った。梅雨も夏もこないで、このお天気で、おだやかな、この春がずっと続いて、ぼくはいろいろな場所にでかけて、1日1つ、小さな新しいことがあって、1週間に1人、新しい出会いがあって、そんなふうな暮らしを、あと何年もできたらいい、みたいに思った。

だけどそれは、ぼくが目と肌だけでできていたら、という話だ。ぼくには身体も見られる顔もあり、それには、時間が刻まれていく。

だけど、ふと、降りたことがない駅で降りてみようと思って降りた。駅前のスタバに寄る。とても気持ちがいい空間で、客たちも思い思いのことをして過ごしていた。

昨日は、別の駅前で、カフェ探しに難儀し、結局入ったパン屋付属のカフェで、狭い席に体を押し込みながら、なんだか周囲の人たちがトゲトゲしているような気がして落ち着かず、早々に席をたってしまったのとくらべて、ずいぶん違う。昨日の駅と今日の駅は、3つくらいしか離れていないのに。

おそらくは密度だろう。昨日の駅は密度が高かった。住宅街として古くから開け、駅ビルも古びていた。高齢者も多かった。さびれているのに飽和している、ふしぎな街だった。

今日の駅は新興住宅地で、駅の周囲以外は、突然なにもなくなるような、家しかなくなるような、そんな場所だったが、新しく越してくる人ばかりだからなのだろうか、駅ビルができたばかりだからなのだろうか、新鮮な風が吹き抜けている気がした。

しかしぼくの発現無意識は、どうなっているのだろう。

ちっとも引っ張ってくれていない。早くぼくを大人に、大人を越えたもっと大人にしてくれないか。ぼくという生命体が必要とする成長を、DNAと呼応しながら、準備し、遂行してくれなければ困る。

ぼくは発現無意識のよどみのうずにつかまって、回転しつづけているのかもしれない。

引きにはついていくつもりだ、だから、引きを、引きを!

そんなことを言いながらも、それとなく予定ができて、人と会うことになる、やっぱり東京は、東京だ。