読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

松本人志やっぱすげえよな

毎週日曜日、前夜に夜更かししてすごく眠くても、なんとなく10時過ぎには起き上がる。それは、『ワイドナショー』が観たいからだ。松本人志が出ているワイドショー番組だ。やっぱり松本人志をみたいから見ているようだ。松本人志が時事な問題に何というか。やっぱりそれが聴きたいから見るのだ。

気がつけば、松本人志は、耳を傾けられる人になってしまったようだ。いつのまにしうなった? 昔から天才だとか、キレてるだとか、頭いいとか、独自の視点だとかはあたりまえに言われていたけど、どちらかというといいかげんなむちゃくちゃな人で、なんでもひねった笑いに変えてしまう、笑いがすべてみたいな特殊人間だったはずだ。それがいつのまにか、頼むよ、まっちゃん、信じられることを言ってくれよ、それも笑えるようにね、というすごいハードルの高いことを求められる立ち場になってしまっている。浜田はそんなことないのに。

浜田はまあ、普通の世間をよくわかった、まっとうな大人が言うことを言うことを期待されているだけだ。それは、SMAPの中居と同じようなことだ。

だが、松本は、それではすまされないようなのだ。それ以上を求められている。俺の中で、だけかもしれないけど。

松本に求められるのは、何の後ろ盾もないひとりの個人が心の底から信じていることを、つまり本音を、いかなるときも言う、そんなふうに期待されている。

それは、大げさな本音ではいけない。黒いことを言えばそれが本音かというとそうではない。欲望をあからさまに肯定すれば本音かというとそういうことでもない。もっと繊細な本当の本音を言うように求められているのだ。これは、大変だよ。

本音、というのは語弊があるかもしれない。本音とはいつも1つとは限らないからだ。ぐちゃぐちゃになっている、相矛盾するメッセージが交互にやってくる、そういう本音もある。

松本人志村上春樹なのだ。

村上春樹は大変だ。2度も大変なことを言わされている。1つは、イスラエルの受賞式で、卵と壁、という話をさせられている。させられるいるとしか言えない。イスラエルの場で、イスラエル批判ともとれるスピーチを世界中が見ている中で、した。それも、立場からの発言が許されない作家として。どういうことか。たとえば、政治家なら、公として発言を求められるだけで、お前、本当に心の底からそう思っているんだろうな?とまでは言われない。まあ、なんといっても、あの人は、政治家だから、そりゃあ、いろいろあるでしょ。いろいろな立場や利害や、党利党略、諸事情があるでしょ、ということで、割り引いて聞いてもらえる。オバマでさえそうだ。オバマがどんなにキレイ事を言ったって、そりゃあ大統領の立場ならああ言うしか無い、というように許されて、広島に謝罪しないと言ったって(そこまで言ってないが)、本当は謝罪したいくらいの気持ちがあるはずだ、と胸中を推し量ってもらうことができる。

だが、村上春樹は、推し量ってなどもえらない。作家はやっぱり、私人でしかないからだ。村上春樹が、あれは作家としても公の発言であって、私人としての私はまた別の考えを持っている、などと言えば、たちまちふざけるな!と多くの人を失望させるだろう。べつに小説を書いているからといって、いつも本当のことを言わなきゃいけない、なんてきまりはないのだが。

だが、僕たちは、あるいは僕は、それを期待してしまう。そして、フクシマのあとは、ヨーロッパで、原発はよくない、と言わされた。大変なことだ。

言わされたと書いたが、村上春樹の本心とはちがって、という意味ではない。村上があの場に立ったとき、失望させないでくれ、という1000万の目が注がれたということだ。僕らの村上は、信じられる人であってほしい、と。

どうなのだろう、だが、ああしたスピーチはどのくらい本心なのだろうか、一度聞いて観たい気もする。

だがしかし、どうして僕は、松本人志に、本心を話してほしいと、思ってしまうのだろうか。どうして、立場からのポリティカルコレクトで許してあげようと思えなくなっているのだろうか。それはやっぱり特別な人だからなんだな。

というようなことを仕事の合間に考えていたら、また中高生に囲まれていた。今日もマクドナルドだ。ここまで若い空気を吸いたいわけではないのだが。。。