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ハリウッドザコシショウ

ハリウッドザコシショウが、R-1で優勝したわけであるが、僕も決勝は生で見ていた。もうヒイヒイいいながら笑ってしまった。中でも好きなのが、武田鉄矢が「ぼくはしにましぇん」と言うところのものまねだ。手をグル回しながら、「ぼっちっちぇ、あっちちゃ」みたいなことを叫んでいる。それで、超笑ってしまった。でも、なんでおもろいのか、すぐにはわからなかった。

 

前に、脳関係の医者だか科学者だかが書いた本のなかで、失語症で言葉が理解できなくなった人たちが、病院でテレビを囲んでいて、そこには米国大統領がスピーチをするところが流れていて、それを見ている患者さんたちがゲラゲラ笑う、というシーンが出てくる。なんでも、大統領が真面目な顔をしてしゃべっているのが面白いのだそうで、つまり、心にもない真っ赤な嘘をとうとうと語っている姿に大笑いしているのだという。患者さんは失語症だからスピーチの内容はもちろん聞いていない。ただ、声色とか、顔の標準、抑揚なんかを見ているだけなんだが、それで大笑いできるらしい。これを、僕も体験したいな、と思った。ただ、言葉が理解できないだけじゃ、この体験は難しいだろう。たとえば、僕はフランス語がまったくわからないが、フランス大統領のスピーチをテレビで見ても、どこが真っ赤なうそで、どこか本心なのか、いまいちわからない。

やっぱり失語症だからこそ、読み取れる何かがあるのだろう。だから、一時的にそのような状態になって、人びとのやりとりを眺めてみたいと思ったのだ。

 

生活の中に笑いがすくなって久しい気がした。10代後半から20代前半のころは、関西に住んでいたこともあってか、とにかく隙あれば笑いをとろうとしていたように思う。近くにいた友だちもみんなそうだった。一日中、笑わし、笑わされていた。面白いことを言えるということに仲間内ですごく高い価値が置かれていたように思う。おそらく若者はとはそういうものだ、というだけだろうが、たしかにそうだったという記憶がある。

どうしてあんなに笑っていたのか。昔のCMで、笑い転げる10代の女の子が、だって箸が転がるんですもん、と言うようなCMがあったが、箸が転がってもおかしい年齢というものがあると昔から言われているわけだ。それはいわゆる思春期、とくに女の子なのだ(たしか)。なぜなのか。希望に満ちているからなのか、ただ、情緒が不安定だからなのか。もちろん、今でもお笑いはよく見るし、仲間内でも面白いことを言い合う場面はある。が、それほど価値を置かれなくなっている気がする。もっと大事なことが人生にはある、と常に引き戻されてしまうからだろうか。

明石家さんまが、つまるところ笑いとは緊張と緩和なんだ、というようなことを言っていた。

そういえば、前のマクドナルドで子連れのママさんが隣に来て、という話を書いたが、あのとき、ふと、思ったことがもう1つあった。それは、ママさんが、子どもに「静赤にしなさい」とたしなめながら、ときどき、ぷぷぷっと吹き出していることだった。子どもが何かおかしいことをするのだ。それはおかしな顔かもしれないし、もっと無意識的なおかしな行動や言動なのかもしれない。ただ、かわいい、というだけで笑ってしまうことがあるのかもしれない。でも、こういう光景ってよく見るよな、と思った。

小さい子供を連れたママさんは、よく、ぷぷぷっと笑っている。子どものすることにウケているのだ。これは発見でもあった。僕は子どもがいないので、あーわかるわかる、とはならないのだ。だから興味深い。僕の感覚でいえば、ママさんは1日に少なくとも20回くらいは子どもに笑かされているはずだ。ただ、かわいい、かわいい、だけじゃなく、吹き出すほど笑えるってすごい。毎日うんざりするほどいっしょにいる相手に、こんなに頻繁に笑わしてもらえるってうらやましい。

子どもは何をして、ウケをつくりだしているのだろうか。天然ボケ的なことだろうか。

ザコシショウは「俺達の」笑いだ。かつてのダウンタウンがそうだったように。芸風が似ていそうな長野は、俺達の笑いじゃない。あれは奴らの笑いだ。みんなの笑いと言ってもいいだろう。正統派だ。ザコシショウは久々にテレビで見られた、俺達の笑い、と言う気がした。

でも、ザコシショウのネタは3回めくらいから、まったく笑えなくなるのが、少しつらさみしい。なぜなのだろうか…。