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リアルよりリアリティ

又吉の『夜を乗り越える』という本を読んでいました。

面白かった。又吉を好きになったかもしれない。『火花』を読んで、あれ、思ったような何かがもたらされないぞ、という気持ちになったりしたが、でも、何箇所か、おお、助かるよ、というところがあった記憶がある。具体的な箇所は今すぐ言えないが、そういうふうに書いてくれて、なんだか助かるよ、と思ったのだ。

そういうのってあるよね。おそらくは、『夜を乗り越える』のなかで、又吉自身が書いていたのだが、自分では気づいていなかったけど、そう感じていたようなことを、ズバッと書いてもらえると、共感というか、ほっとする、あの感じだ。

そうだよね、そう思っていいんだよね。という。

又吉は僕にとってそっち系の人に認定されたようだ。信じられる奴っていうやつだ。

まだ、予断は許さないという気持ちもあるが、ほぼ確定していいだろう。信じられる。

そういうことを言うと、お前は何様だという声が自分の中からもやってくるが、それでいいんだ、という声がさらにかぶせてくる。

それが正しい本の読み方だ、と。自己啓発な本もたくさん読んできた。すごく疲れているとき、そういう本を求めた。読むと安心できる気がした。すがるように行を追う。だが、どこかでわかっている。俺は信じていない。これを書いた人を。という感覚がどっかにあるときも多かった気がする。書いてある内容は最高だ。どこも間違っていない。完璧だ。それを証拠に感動している。でも、どこかでわかっている。この効果は続かない。し、これを書いた奴と会ったらきっと失望することを。

又吉は、失望しないだろう。それは又吉に又吉以上のことを何も期待していないからだ。傍観者の気持ちで見ているだけだ。そうか、そうやってやってんのか。でも、それだけで、なんとなく少し助かる。それだけだからだ。

人生に宿題なんてないのかもしれない。宿題なんか終わらさなくても、夏休みは終わる。二学期が始まって、先生におこられて、居残りでやらされるのかもしれないが、夏の宿題がおわらないうちは、夏が終わらない、わけじゃない。夏は終わる。夏が終われば夏休みも終わる。僕たちはただ慌てるだけだ。でも、二学期を始められるんだ。

あれ、なんかちょっと違っちゃったな。たとえが悪かったのかもしれない。

いま残念なことに気づいた。又吉は年下だ。。なんか本に書いてあると、人生のセンパイみたいな気分で読んでしまっていた。いいんだけど、自分より年下の人に、信じられる何かを求めるなんて、やっぱり、情けないと思ってしまった。

やっぱり村上春樹を読もう。。

春樹はセンパイだ。先輩なら先輩らしく、よすがになってもらえばいい。

ところで、若くして亡くなった、先人たちは、よすがにしていいのだろうか。それとも、それは、情けないことなんだろうか。太宰治なんて、俺は実はちゃんと読んだことないけど、あんなの、又吉は敬愛しまくってるけど、俺より若く、あの世にいっちゃってんじゃんか。そんな人が若気の至りで書いた文章を、ありがたがってはいけない気がしてしまうんだ。やっぱり俺のほうが長く生きた。それはゆるがない。太宰が悩んでいたら、俺が何か言ってやらないといけない立場だ。一応人生の先輩として、うんぬんかんぬん、だと俺は思うよ、だから、お前は、結局のところ、いろいろあるし、苦しいし、今はそう思えないかもしれなけれど、うん、お前は大丈夫だよ、と。

太宰、お前は大丈夫だよ。でも、しっかりやらなくちゃあだめだよ。現実にはひとつひとつ集中して対応していかないと、現実は現実だからな。でもね、そうやって、よっぽどへまでもしないかぎり、あなたならできるから、いっこいっこ、やって、丁寧にやっていけば、思った通りにはいかないかもしれないが、なんとかはなってるよ。

というようなことを、焼き鳥屋の隅で、酔った勢いで、言わなければならない。

でも、彼らは先人である。先人は、先に生まれているという意味でやっぱり先輩なのでは? 俺より先に人生を経験したことは間違いない。だから、まあ、いいことにする。

きょう、ラグビースコットランド戦、天皇の天覧試合を見ていた。惜しくも負けた。本当に惜しかった。悔しかった。まだ悔しい。なんでこんなに悔しんだろうか。