バレーボール、グリット、広島オバマ

最近、バレーボールのオリンピック最終予選をかじりついて見ている。女子バレーはしびれる場面がたくさんあった。イタリア戦の木村沙織の完全に本気になった顔と鬼気迫るプレーにびっくりしたし、そう、もう全盛期じゃないのかな、と少しさみしく思っていたのが、体が下から突き上げられるかのようにジャンプして、ありえない方角にスパイクを決める沙織選手に、なんだ、まだぜんぜんできるんじゃんか!と安堵と喝采だった人がお茶の間にたくさんいるはずだ。こんな感動話をあと5〜6はできる。そんな熱い闘いだった。

 

そんな日々を送っていると、自身もバレーボールをやっていた中学、高校時代を思い出すのは必然だ。いろいろな場面が思い出されたが、最近、リフレインしているのは、放課後、部活が始まるまでの時間を、チームメイトと一緒に過ごしたある日の場面だ。なぜそこに集まっていたのか、思い出せない。体育館がほかのことで使っていてまだ練習が始められない、とかそんなことだったように思う。教室に、1人、また1人と部活のメンバーが集ってきて、とはいえ、4人プラス女子マネくらいの感じで、窓から日差しがよく入ってきたように覚えている。

ぼくたちは椅子にすわってまったりしていた。女子マネが、最近、この曲がすきなんだ、と言って、MDのイヤホンを部員のひとりに回した。イヤホンを受け取った部員は、しばらく曲に耳を傾けて、あ、エムだね、俺も大好きなんだ、と言った。プリンセスプリンセスの『M』だ。

そのとき、ぼくはなんだかたそがれていて、Mはいい曲だよね、と心のなかであいづちをうちつつ、なんだかスッキリしない気持ちをもてあましていた。

おそらく、今日、練習するのが嫌だ、とかそういうような気持ちだ。そして、そう思う自分が嫌だ、という気持ちもあったように思う。基本的に練習が嫌いで、部活も嫌だ嫌だと思いながらやっていた。それでも上手かったら、漫画のヒーローにもなれるが、僕はうまいほうではなかったから、浮かばれない話にしかならない。

 

グリットが足りなかったのだろうか。いま、ライフハッカーの翻訳で、Grit(グリット)がテーマの記事に取り組んでいた。Gritとは、やり抜く力、というような意味の言葉で、最近、米国では少し流行っているようだ。なんでも、心理学者たちの研究で、さまざまな分野で一流の業績を収めた人に共通していたのは、才能ではなく、このグリットであることがわかったそうだ。ある学生が良い成績を収めるかを予測するには、その生徒のグリットがどれほどあるかを調べればいいらしい。アンケート調査でわかるようだ。

 

オバマ大統領が広島に来た。中継を見ていた。資料館に入って10分で出てきたときは、短いな、と思った。スピーチは、さすがにいいこと言うなと思ったけど、とくに際立ったことを言っているようには思えず、長いな、と思って聞いていた。だが、そのあとで、被爆者のおじいさんと握手をして語り合う場面で、おお、と心が動いた。胸が熱くなった。なぜだろう。すべては段取り通り行われるセレモニーだ。だが、胸は熱くなった。きっとこういうセレモニーは大切なのだ。オバマやっぱりすげえな、と思う。

テレビのなかで、ほかの被爆者のおじいさんが、オバマにほおずりしたいほどうれしい、と泣いていた。そして、肩の荷が降りた気がした、というようなことを言った。へえ、と思う。肩の荷が降りたのか。どういうことなのか。被爆者が抱えてきたやり場のない気持ちが、オバマの来訪と献花によって、報われたということなのだろうか。オバマは原爆を命じた大統領ではない。それでも、これほどの寛解がある。とにかく、よかった。オバマよくやってくれた、という思いがした。そういう僕も被爆者ではないし、身内に被爆者もいない。

そしてMである。久しぶりにMを聞こうとYouTubeをあさっていたら、なぜかテレビドラマがヒットした。なんとなく見始めたら、面白くて7話全部見てしまった。久しぶりに、ドラマっていいな、なんて思いながら見ていた。7年前に亡くなった夫を手放して、生きている人のほうを向く、というドラマだった。というか、主演女優がタイプだった。

 

さて、というか、やっぱり、オバマだ。オバマが広島に来た、これはやっぱり大きい。ドラマの主人公も、最終回、肌身離さず持ち歩いていた夫の遺骨をお墓に返した。そういうことがあって、未来を向ける、なんてことがあるんだろう、と考えていた。