橋本治がいいね、

春なんで褒めるシリーズ。橋本治がいいねだ。

いま、橋本治の本をよく読んでいる。いろいろ。最初に手にとったのは「蝶のゆくえ」だった。高橋源一郎がお勧めしていたので読んでみた。

しんどかった。読後感がせつないのだ。あー。これは物語なのだ、フィクションなのだ、と言い聞かせることができないくらり、ああ、きっと本当にこんなふうなんだろうな、と思わせるものがあった。軽々しく泣かせてくれない小説だった。

 

虐待されて死んじゃう男の子の話なんだけどね。虐待される子も、する大人も、みんなかわいそうになる物語だった。そしてそこはかとない怒りが湧いてくる。そう、この怒りは馴染みのあるものだ。日々うっすらと感じている、社会へのやるせなさ、みたいな感じかな。そーいうのがあったね。

 

それから、いろんな本を読んで、いま読んでるのは「二十世紀」という本なんだけど、面白くて、なかには読み通せなかったものもあるけど、なんかこの人の本は、一気に読めてしまうものがあって、リズムがよいのと、うんうん、そうそう、そうなのよ、みたいに共感を乗せていってくれるところがあって好きなんです。

 

ということで、どうやら橋本先生も「信じられる」に入れちゃおうかなーって思ってるところです。

しかし、この信じられるってなんなんだろうね、前も又吉の本のときに書いたけどさ。まあ、都合よく考えれば、自分が思っていることが正しい気にさせてくれる、みたいなことなんだろうけどさ。でも、うんうん、わかるわかる、とうなずきながら読んだあとで、まあ、でも、きれいごとだね、これは。と急に冷めてしまう人の本もあるんだよね。一方、この人はなんてまあ頭がいいんだろう、と感心して読むんだけど、どっかそこはかとなく、騙されちゃだめだ、ってごくごく小さな声がささやくこともある。内田樹とか、宮台真司かなーたとえば。どちらもどちらかというと好きな作家なので、悪くいうつもりはないんだけど、なんかひっかかるなあ、って感じがあったりする。

 

というか、別に比較して論じたいわけじゃないから、いいや。

そうじゃなくて、なんというか、ああよかった、君がいてくれて助かったよ、という素直な気持ちにさせてくれるのが、僕にとっての「信じられる」作家で、そういう人の本に出会うと、ああ、よかった、これで少し生きられる(おおげさ)と思うわけだ。

 

これってやっぱり、どこか勝手な解釈で、自分が肯定された気分になるからなんだろうけど、でも、それでいいじゃんというか、そういうものだってそんなにホイホイと見つかるもんじゃないよということなのだ。

 

たぶん、橋本治本人に会えば、いじわるなこといっぱいいわれると思う。あんたなんか、ごまかしばっかじゃない、って。でも、そういう形の肯定だってあるわけで、というか、僕のことをどう思うかなんてことではなく、橋本さん本人がどう生きて、なにを感じてきたのか、というところで、ああ、よかった、となるわけだと思う。ご苦労されているのか、されていないのか、ふわふわと掴みどころがなさそうな人なんだけど、とにかく、橋本さんをネタにたくさんのことが書けそうだという気持ちにさせる。ふふふというおかしみを感じる。それが大事なことなんだね。

 

ほうれん草はすごいと思った。

昨年の10月、いや11月になろうとかというころだろうか。父が急逝して少しして、母が庭の畑にほうれんそうの種を植えた。すぐに芽が出てきた。そしてゆっくりと3センチくらいまで育った。だが、そこで成長が止まってしまった。まてどくらせど、それ以上大きくならない。気がつけば冬になっていた。雪も降った。たまに思い出して見に行くと、一列に行儀よくならんだほうれん草は、元気をなくし、葉が黄色くなりかかっているものさえあった。このまま枯れてしまうのだろうか。植えるタイミングを間違えたのだろうか。母に尋ねると、いつもそうだよ、的な答えが返ってきたが、到底納得できるものではかった。

そして、あれ、気が付くと春が来ていた。同じ頃に植えたチューリップがぐいぐい芽を出し、成長して、ついには赤い花を咲かせていた。僕は、ほうれん草はどうかな、と見に行ってみた。あ。少し大きくなっている。ほうれん草は成長を再開させていたのだ。生きていたんだ。冬の間は、おそらく成長するだけの太陽エネルギーが得られないか、気温が低すぎるだからで、ぎりぎり死なな無い程度の生命活動を維持しいて、春が来たとみるや、一気に巻き返しにきたのだ。すごいと思った。よく耐え、そしてタイミングを逃さない。何事もなかったかのように、ほうれん草は育つのだろう。人工知能のロボットってこんな感じ?と一瞬思ってしまう。でも、よくプログラミングされている、としか言えないような感じを持ったのだ。種に入ってた装置すげえな、みたいな。

 

あんなに待ち焦がれた春なのに、本番が来てみると、なんかつらい。まず花粉症がつらい。が、それだけでなく、あんなに待ち焦がれた春が来てみると、自分は何を待ち焦がれていたのか、つきつけられるような気持ちになる。さあ、春がきたぞ、やってみろ、ほら、待ってたんだろ、と言われているような、うかうかしてると春が過ぎさるという焦りもあって、春が好きなのに、つらい、そんな矛盾の中にいま、いる。もうすぐ四月。 モスバーガーでマスクをしながら。なのだった。