安保法制でおそろしいこととは

たとえば、自衛隊アフガニスタンかどこかでパトロール中にタリバンかなんかと戦闘になり、敵が逃げ込んだ廃墟の村に迫撃砲を打ち込んだら、そこにはまだ住んでいる住民がいた。調べにいくと、女、子どもを含め17人の亡骸が転がっていた。

なんてことが起こることが恐ろしいのではない。

本当に恐ろしいのは、きっと日本人はそのことに慣れてしまうだろうということだ。

最初のうちは騒ぐかもしれない。日本の兵隊が戦後初めて、外国人を殺した。それも軍人ではなく、一般市民を殺してしまった。すごい騒ぎになるだろう。でも、それでももし、そこが戦闘地域ならなおさら、自衛隊は引けないだろう。そして、そうした偶発的な「事故」は定期的に起きる。次第に、マスコミも国民もそれほど騒がなくなる。平和のための「極小」の犠牲者に哀悼の意を捧げるだけになる。いやそれすらも忘れてしまうかもしれない。そうして日本国民は、遠くの国で自衛隊が一般市民を誤って殺してしまうことに慣れていくだろう。

いまのアメリカ市民のように。

そして、世界には、いや国内でさえも、もっと重要なことがあり、そっちのことを考えよう、ということになるだろう。

日本だけじゃない、アメリカだって、欧米だって、あのドイツだって、最小限の犠牲は、自他共に払っているのだから。

きっとそうなると思う。慣れとはおそろしいもので、たいがいのことには慣れてしまう。

戦争、いや、自衛隊による局地的戦闘といったほうが正確だろうが、それにも慣れてしまうだろう。

そしてごくたまに国内で外国人によるテロが起きるかもしれないが、それにもいずれ慣れてしまうだろう。イギリスやスペインやフランスのように。

きっと平気だろう。ぼくたちはきっと平気だろう。そして、そこに大義を見出すことはそれほど難しくないだろう。だってそれが世界の現実なのだから。日本はそれでも最大の努力を払って、諸外国と比べてもはるかに小さい犠牲に押さえている。そう自負することになるだろう。

それでは本当にいけないのか、と言われると、よくわからないかもしれない。

ただわかるのは、そのとき、日本はリーダーシップはとっていないであろうということだ。アメリカやNATO軍の後方で、肩身をせまくしながら最低限の軍事活動をしているのだろう。

だからやっぱり僕なんかがもしかしたらと思ってしまうのは、日本が武力によらない戦略的平和主義を非常に賢く立ち回り、世界の紛争の芽を摘みまくり、日本の領土に野心を示す国に先制の先制攻撃を(武力によらず)くわらし、攻められなくしてしまう。そういう戦略を徹底的に研究する機関があり、世界中の官僚や政治家が勉強しにやってくる、みたいな。

そういうの、かっこいいのになー。