図書館に行ってみたら閉まっていた話

久しぶりに図書館への道を歩いてみた。というか、図書館へ仕事をしに出かけた。いつも出かける前はおっくうだ。でも、天気に悪い気がして、出かけてみた。やっぱりいい天気だった。困るなあ、という気分になる。こんなに天気がいいなら、山とか海とかに出かけなくちゃいけないんじゃないか、と一瞬考えるが、まあ考えても仕方ないな、と思い直して、いつもの道を歩き出した。

家から出て、少しいったところの、空き地に、不思議なものがある。植物なんだが、藻のような、わかめのようなものがグジュグジュ、っと点々とある。黒い。踏むとニュルッっとして気持ち悪い。なんだろう。おそらく苔の一種だと思うが、お前のせいで、ここら一体がうらびれて見えるじゃないか、としかりたい気持ちになる。

いつもの細道を抜けていく、両サイドに家と畑が交互に並ぶ。おじいちゃんが農作業していたり、おじさんが散歩していたり、中学生がてくてく歩いていたりする。

細道を抜けて、短い橋を渡って、さらに畑の中の一本道に入る。と、あ!と思った。

景色がきれいになっていた。解像度がとても高いカメラで撮った写真みたいになっていた。鮮やかだった。そうか、春になったのかと、いまさらに思う。ついこの間、といっても結構前だという感覚はあるのだが、この道を、マフラーを巻いて、凍えながら歩いていた。緑のない風景をさむざむと見つめながら、それでも少しばかり春の気配があると、わざわざ写真を撮ったりしたのに。なんだ、これは。

春を通り越して、はちきれそうになっていた。きれいだなー。と見渡す。空もいい感じで水色青いし、市役所の茶色も鮮やかだ。もちろん、緑も。はあ〜となっていた。

これはやはり幸せの一種なのだが、なぜ幸せなのか、まてよ、と考えてしまった。うかれてる場合じゃない。どうしようか、と考えるテーマを設定して、歩き始めたのではなかったか。あら〜とかいって、ただ、春が春らしいということだけで、問題がないかのような気分になってはいけないのだ。

だまされてはいけない。思い直すと、はあ〜という気分もいつしか消えていた。まあいつものことだ。どんなに感動的な風景に出会っても、その気分はフェードアウトしていく。同じ風景の中にいるのに、我にかえるときがくる。

もっともそうでないと、日常生活などは成立しないのかもしれない。ところで、はっきり言おう。図書館は閉まっていた。もうタイトルでおわかりかと思うが、いや〜久しぶりの図書館だな!とうきうき気分で、自分で淹れたコーヒーを持参してきたというのに、帰りに肌寒くなることを想定して上着まで持参したというのに、駐輪場には自転車がゼロ台だった。

もうわかっていたが、一応玄関までいって、確かめる。張り紙がある。本の整理で10日間お休みらしい。昨日から。あっそう。

おれは耐性がついていた。こういうことはよくあるのだ。よりによって、おれが一ヶ月ぶりにやる気をだしたときに休館しなくてもいいじゃないか、と言いたくなる気持も、レッドゾーンどころかイエローゾーンに到達することもなく、なるほど、まあ、ありがちだな(俺的に)と頭のなかでつぶやいて、即効で家路についた。

帰り道、また同じ道を帰った。また同じ農道を歩いていたら、また、ぽわーんとした気持ちになってきた。さっきのはあ〜とは少し違う。なんだろうと思っていると、子どものころにリンクしたようだった。木を見ていたら、カブトムシをとりに行って、カブトいないかな?と思っていたときのイメージが重なってくる感じがした。

こんな天気なら基本、虫をとっていた。そんなころもあった。

あれ?と思う。いつのまに時間が過ぎたんだ。いま視界の中に他の人は入っていない。それなら、時間はいつであってもかまわないような気がした。でも、ちがう。そこがせつなくもあり、当たり前過ぎて何言ってんだろ、ということでもあった。

途中、自転車を降りて、川べりでしゃがみこんでいる、男の人がいた。白髪でふけてみえるけど、体つきはシャンとしてて、自分と同い年くらいかもと思う。もしかして、アイツじゃないか、と思う。どうやらちがったようだ。横を通過ごり時、怒られるんじゃないかと思った。彼にではない。もっとちがう、一般の、おばさんか誰かに。

お前は、そんな恰好でブラブラと中学生みたいに歩いて、どういうつもりなんだ?と言われているんじゃないかと言う気がして、早歩きになった。

細い道が終わる時、前方に親子を発見した。最初は4歳くらいの子どもを発見した。幼稚園かなんかの制服をきている。夏服だ。それが、しゃがみこんで地面をいじっていた。子どものすることだ。そして、お母さん、的な呼びかけをした。おかあさんではなかった。違う呼び名だったが、前方の自転車を押して歩いている若い女の人がいた。自転車の荷台には、もっと小さい子が乗っていた。

制服の子が、また、呼んだ。女の人は振り返らずにすたすたと行く。もちろん、聞こえる距離だ。ああ、あれか、と思う。よく見かけるよね、子どもがいちいち道草するので、おかあさんが呆れてしまって、半無視を決め込んでいるのだ。

どうして、このシーンをこんなによく見るのだろう、とふと思う。子どもはいつも、おかあさんを「もうッ」という気持ちにさせる。あかあさんは無視をしていれば、子どもはトコトコとついてくることを熟知している。

見た、という気がした。思い出みたいだった。目の前のシーンだけど、思い出ってこういう形だよね、というサンプルが歩いていたのを見た気がした。なんかのアトラクションみたいにサンプル感があったのだった。4歳の子はひたすら無邪気でかわいく、1歳の子はひたすらぼーーっとしていた。

つまりは、今日も何もない一日を無為に過ごしたのだ。あとは家にこもって仕事と飯とインターネットとTVと、家族との無駄話であっというまに、深夜になっていた。

ただ、時間が過ぎた、それだけの気がした。それは、今日一日のことでもあるし、あの家族からこの家族に移行したことも指している。

戦いはいつのまにか終わっていたりする。

終わらない小競り合いもある。いつのまにか、新しい(うれしい、うるわしい)戦いが生まれていたりする。

おなじギャクで笑えなくなるのはどうしてだろうか。慣れたくないものには慣れてしまって、早く慣れたいものにいつまでも慣れない、そんなことはないだろうか?あるよねー。