手に入らないという自由

それさえ手に入れば、それさえ手に入れば生きていけるのに、満たされるのに、というものが誰にでもあるだろう。

ある人にとって、それは誰かからのある言葉であることもあるだろう。言葉とはもちろん、心からの言葉でなければならず、つまりは態度だろう。態度といっても心からの態度でなければならず、つまり欲しいものはそれそのものなのだ。

だがそれは、決して手に入ることがないものだ。なぜならば、それは、差し出す側からすれば、それだけはあげられない、それだけは言えない、それ以外ならなんでもあげられるが、それだけはどうしても出してあげられない、そういうものであることが本当に多いからだ。

なぜあげられないかといえば、それをあげなくてもいい状態というものこそが、その人が心から欲っしているものだからだ。欲しくて欲しくて、でも決して本物は一度も手に入らなかったものだ。それをあげなくてはいけないなんて、腹が立ってしょうがない、いままでの人生どうしてくれる? いままでのあれやこれやの感情は、どうしてくれるのだ、ということになってしまうのだ。そしてなによりも、それをあげてしまったが最後、自分がどうなってしまうのか予想もつかない怖さがあるからだ。

せつない関係だといえる。どうしても欲しいものは、どうしてもあげられないもの。どちらかが満たされれば、どちらかが決定的な挫折を味わうことになる。つまり、欲しかったものが永遠に手に入らないことを認めることになる。

だから綱引きっこをやっていく。死ぬまでやっていくのだろう。気づいてやめられるような生やさしいものではあるはずはなく、自分でもどうしようもないところにあるものだ。

なんのことを言っているのか、抽象的な出だし出始めてしまいましたが、哲学的に言えば、自体愛というものになるのだと思います。ほしいくて欲しくてたまらないものが手に入らない、それが成人の自由なのだと思ったのだ。

だとしても、やはり、欲しいものは欲しい。欲しいものは欲しい。そうやって叶わぬ夢をもつことも、生きるエネルギーの一部なのだとしたら、それもありなのかもしれない。