飽き、安心、そして幸福図式

今日、また姪っ子からスカイプがかかってきた。

ほぼ毎日かかってくる。

そのまえに、電話がかかってきて、パソコンでおしゃべりしよう、と誘ってくる。

ノーとは言えない。

だいたい一時間くらいガヤガヤ話す。今実家にいるので、姪からみておばあちゃん、おじいちゃん、もいる。一緒にスカイプを見守る。

姪っ子は、いつも画面の向こうで何かをしている。今日は、プラレールで遊んでいた。

クリスマスのプレゼントにもらったやつだ。

機関車トーマスを、レールの上に走らせる。何か、不思議な歌をうたっていた。言葉が聞き取れない。なんていってるの?と聞いても、答えてくれない。

後で聞いたら、勝手に作った歌のようだ。少したじろく。なぜか、たじろいた。

ふたつの意味でたじろいた。まず、勝手に歌詞をつくって歌い出したこと。思ったより早い。というか、その歌詞に意味がない(たにんには通じない言葉)であることにたじろく。なぜかわからないが、ひやっとした。

そして、その言葉の意味を教えてくれないことにもたじろく。秘密みたいなのだ。もしかすると、意味がないから答えられないだけなのかもしれない。でも、なんでもないよ、とも言ってくれない。ただ、「なんて言ってるの?」というこちらの問いかけを無視するのだ。

これはいったいどうしたことか。また一歩、姪は知らない人になりつつある。なにもかもがあけすけだった、幼子の域を脱していく。少しさみしい。

そして、もうひとつ寂しいというか、あ、っと思ったこと。

今日、小一時間スカイプしていたら、そろそろ切りたいな、と思い始めたことだ。こちらが。仕事に行かなくちゃいけない。フリーランスといえども、ある程度の「出勤時間」はあるのだ。だが、姪っ子はとっても楽しそうだ。僕らに見守られて、うきうきで遊んでいる。そして、こうして見守ってやれるのも、いまだけかもしれない。

というか、見守ってほしいと言ってくるのも、幼稚園に入るまでの、あと数ヶ月のことなのかもしれない。きっとそうだろう。お友達がたーくさんできたら、叔父さんなど見向きもされないのだ。

だから、僕も姪っ子のオファーを極力断らないようにしている。いまだけ、いまだけ、とありがたがっている。実際、とってもうれしい。

でも、昨日も朝から夕方までぶっとうして遊ばされた後、今日も寝起きにスカイプがかかってきたとき、さすがに、飽きを感じた。またか、と思う。もちろん、うれしいが90%で、またかは10%くらいなのだが。

そして、飽きを感じた自分に驚きと少しの罪悪感を感じる。とともに、ああ、これが幸せなんだと思う。

 

飽きるほど、安心しているのだ。去年などは、3歳に満たない姪っ子に顔を忘れられたくないと、必死にこちらからスカイプをかけていたものだ。それでつれなくされていた。3歳になる前後から、急に向こうからかけてくるようになった。

なにやら恋愛話のようだが、構造は似ているのかもしれない。

またか、と思えるほど、感じられる絆が強くなったのだ。もう姪っ子が俺を忘れることなどない、俺に興味をなくすことなどない、とどこかでたかをくくったのだ。

だってこんなに求めてくれるのだから。

こうして、幸福はつくられる。姪っ子は幸福のいちピースとなって、僕の、家族の幸福パズルに組み込まれた。もう、はやる気持ちをもつ必要もない。

こうした飽きの集大成にささえられて、僕は生きているのだ、とおもった。

そして、ランドセルを背負うころ、姪っ子はまた、振り向いても振り向いてくれない、あこがれの対象に戻るだろう。せつない対象に。だが、それでいいのだ。それがこどもが成長するということであり、僕がおとな側の住人だということの証明でもあるからだった。