時間を見せるリュックコミュニケーション

なかなか仲良くならなかったけど、最近やっと近寄ってくるようになった女の子がいた。たしか4歳くらい。名前を読んでも返事もせず下を向いていた子が、あるとき突然、ハイテンションでリュックサックを持ってきた。俺に渡してくる。かわいいリュックだね~とか適当なことを言っていると、もー!っと怒ったような感じで、リュックから何かを取り出し、これみて!これみて!と言ってくる。見ろという。

どれどれと見ると、ビニール袋に入った弁当箱だった。ピンクの弁当箱だ。かわいい弁当箱だね~などと口ずさんでみると、こんどは中を開けて見ろという。みろみろ、と言う。なので、仕方なく開けてみる。なにかおかしなものでも入っているのか。

中はからっぽだった。きれいに完食されていた。まあ、そうだよな。かろうじて容器の側面にこびりついているご飯粒のかけらを眺めながら、さて、どうしたものか、と思っていると、どうだ、どうだ、という目で見てくる。

全部食べたんだ、えらいね~、的なことを一応言ってみるが、たぶんそういうことじゃないんだろう。どうすれば…。彼女は何を求めているのか…。

ここで母親の仲裁が入った。あらあら、○○子ちゃん、何やってるの? だめよ、邪魔しちゃ。

そうだ、僕はここにタイ語のレッスンに来ていたのだ。いまから授業が始まる。子どもと遊んでいる時間は残念ながら今は、ない。

ということがあって。まあ、少し仲良くなってきた気がするからいいかな、と思っていたら、次にあったとき、またリュックの中身を見せられた。リュックからいろいろ出してくる。筆箱、みろみろ、と言う。見てみる。色えんぴつとかが入っている。まっくろになった消しゴム。

さて、なんでこの子はリュックの中身を俺に見せるのか。何を言って欲しいのか、といぶかしんでいた。

が、今朝、歩いているとき、もしかして!とひらめいた。

あれは、俺に、時間を見せていたのではないか?

つまり、弁当箱を見せたのは、彼女がお弁当を食べている時間を僕に見せようとしたのだと思った。

弁当箱を開けたとき、空になったそれを見た時、かすかに残るご飯の痕跡を見た時、もぐもぐと元気よく弁当をほうばる4歳子ちゃんが、脳裏に浮かんだのは否めない。

そして4歳子ちゃんは、僕がそれをイメージしたのを、イメージしたのだろう。

じゃないだろうか。

そして、筆箱を見せられたのは、今日、お絵かきをした時間を見せられたのではないか。手を真っ黒に汚しながら、せっせとなにかを描いていた、あの時間を。

なるほど、そういう見せ方もあるのか。勉強になった気がした。つい、大人の僕たちは、何かの体験を伝える時、言葉を使ってしまう。あるいは、写真を撮ってみせたり、動画を撮って見せて、伝わった気分になるのだ。

しかし、物を見せる。空になった弁当箱を、真っ黒になった消しゴムを見せることで、自分の体験を、過ごした時間をシェアすることができる。想像してもらうのだ。

 

体験をシェアするとは、そのときの気分をシェアすることでもある。

そしてそれは、すこしエロチックなことでもある。

ほら、わたし、こうだったのよ。あるいは、ほら、これがわたしのすべてよ。

そういうコミュニケーションとも言える。

リュックを人に預ける。リュックを俺に投げつける。俺は受け止め、中身をミル。

からの弁当箱を開ける。からからと箸箱を鳴らす。リュックの中からはらりと舞い落ちつ紙くずを見る。くしゃくしゃになったお絵かきを発見する。リュックの重さを感じる。リュックの表面の汚れ、擦り切れを見る。

こうしたことが、わずか5分の間で行われた。密度の濃いコミュニケーション。リュックコミュニケーションなのだった。