叫ばざるをえないとき

この前、友達4歳の誕生日会に行った。そのときのちょっとしたことから始めよう。はっぴばーすでーの歌が終わってケーキがでてきて。チョコレートケーキとホワイトケーキがあって、それを見た4歳たちが、チョコレートの歌を歌い出した。

幼稚園かどこかで覚えたのだろう。ただ子どもが歌ってるだけのほほえましいシーン。しかし、ここでプチ衝撃的なことが起きた。3人のうちのひとりの4歳くんが、歌の途中で、急に切れたように大声になったのだ。僕は驚いた。なぜなら、なんの予兆もなかったからだ。それは突然だった。それまでどちらかというと控えめに淡々と歌っていた4歳くんが、笑顔でもなく、そのままの表情で、突然、歌詞を叫んだ。チョッ、チョッ、チョッ、チョッ、チョッコレートァ!

 

僕はなぜか胸をうたれた。4歳くんはどちらかというと苦しいそうな表情で、チョコレート!と叫んだ。これはいったいなんだろう。彼はどうしたというのか。もちろん、周囲は何も思っていない。子どもによくある、よくありすぎる行動だ。

 

でも、彼の中で何かがこみあげてしまったのだということは、よく伝わってきた。おそらく、僕はその唐突さに驚き、感動したのだろう。

 

人にはそういう瞬間があるものだ。

 

先日、これまた衝撃的なドキュメンタリーを見た。「開かれた対話」という。米国や(たぶん日本でも)では投薬治療が当たり前となっているある種の「精神病」が、フィンランドのある地域では、当人を囲んで一定期間、対話を重ねることで、治っていくという、現実のお話だ。興味のある人は下の動画を見てもらうとして、

 

このやり方の面白いところは、おそらく、患者とのマンツーマンのカウンセリングではなく、家族や関係者、そして複数の専門家による、グループでの対話だという点だ。その中で、当人は自由に自分に起きていることを話し、周囲は、それを聴き、さらに、それについての感想などを述べるという。それを、症状が収まるまで毎日続けるという。すでに一週間眠っていないなど、緊急性があるときは投薬も行われるという。しかし、それも最初のうちだけだという。

 

難しい話は抜きにして、僕がこの映画を見た範囲で、あ!っと思ったのは、必要なのは表現なのか、というところ。いろいろぶっとばして、結論だけいうと、人はおそらく、人に聞いてもらうという形で、自分に起きていることを表現するひつようがある、生き物なのだ。

 

自分が周囲に表現していることが、著しく、自分に実際に起きていることとかけはなれているとき、そして、それがずっと続いているとき、人は苦しくなるのだろう。

 

まあ、難しい話は抜きにして。チョコレートの4歳くんが、叫んだとき、それまで特になんとも思っていなかったのに、急に気になり始めて、こいつと遊びたい、と思ったわけで、簡単にいえば、かわいいなあ、と思ったのだった。

 

これは性愛などにもつながってきて、僕が好きになる女の人はたいてい、わがままで、自分の気持をわりとストレートに表現してしまう子だ。だからだろうか、後で必ず後悔することになるのだ。

 

 

 

 


『開かれた対話』フィンランドにおける精神病治療への代替アプローチの (Open Dialogue, Japanese subtitles) - YouTube