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さっきまでアイスチャイを仕込んでいた。食べものを扱うのは楽しいかもしれない。今日などは、昨日僕が仕込んだアイスチャイを、初めて来たお客さんが、おいしいおいしいと言い、おいしいから作りかたを教えてくれと言われた。マスターから言われたとおりに初めて作ったチャイなのだが。。とりあえず、えらそうな顔で、水500mlにショウガが70gを入れてね、ぐつぐつ沸騰したら紅茶の葉を大さじ2はい。5分煮込んで、、、などと説明した。細かい数字まですらすら出てきたのは、昨夜、チャイのレシピを必死にメモしたからなのは言うまでもない。

 

話は変わるが、例えば、こんなことを今考えた。例えば、英語の歌をずっと聞いてきて、とはいえ英語の歌詞は聞き取れず、意味もわからず聞いていた曲があったとする。お気に入りの曲だ。いつも、つらい気持ちになるとこっそり聴く曲だったりした。そして、時が過ぎ、かなりの老年を重ね、あといくばくもないかな、と自分でも悟る時が来たようなときに、ふと、あの曲を聞いていたら、英語の歌詞がすらすらと、意味のわかる言葉として、耳の中で鳴り響いいたとしたら。。。あなたはうれしいだろうか。

あなたは英語の勉強を続けてきたのだ。ちっとも上達しなかった。しゃべれるようにもならなかった。と、思っていた。しかし、久しぶりにこの歌を聞いてみると、10代のころから憧れ、見よう見まねで口ずさみ、心の歌としてえきたこの曲。いつか、日本語の歌みたいに聞こえてくるときがくるかなあ、と思いながら、歌詞の意味も調べずにいたこの曲が。

おわりのときをさとったとき、いまさらのようにスラスラと聴こえてきたとしたら。。

ああ、この耳をもったまま、若い頃に戻りたい、そう願うだろうか。それとも、ただ、うれしいか。それとも、それは意味が無いことか。

 

アラスカの平原で野生動物に出会った時の感動と、サーフィンでビッグウェーブに乗った時の感動と、生まれたての赤ちゃんを抱く感動と、英語の歌が聴こえてきた感動は、きっと同一線上にある。

どれにも言えることは、相手側には一切の妥協がないことだ。相手はあなたに一歩も譲る気はない。みじんも合わせる気はない。ただ、あなたが相手に対応する。必死に対応するだけだ。でも、そのことが功を奏するときがある。そう体験できる瞬間がある。その喜びだ。

それから最後にもうひとつ、僕のバンコクライフは、基本、徒歩で完結している。よっぽどの用事がない限り、日常で交通機関を使わず過ごす。それはまずしい生活なのだろうか、それとも豊かな生活なのだろうか。なにわともあれ、僕は、徒歩が好きだ。