受験勉強を好きだったはずだが

最近、職場をマクドナルドから図書館に移した。地元に超立派な図書館が新築されていたのだ。いつのまに!この図書館はまさに快適で、ちゃんと「社会人専用」という作業デスクを用意してくれている。席数も全体で30−40くらいあって、まあどっかには座れる。電源もある。Wi-Fiだってある。ただし、メールなどフォームをつかう処理は禁止とのことで、まあ仕事には使えないのが残念だが。とにかく、カフェも併設されていい感じ。たぶん東京のどの公共図書館よりもいけている。いやー地元すげえ。見なおした。

ところで、図書館にいくと、もちろん中学生や高校生が学生服で勉強会している。すごい一生懸命やってる。けっこう夜8時とかまでやってる。えらいなー。ということで懐かしくなって、家にあった昔の教科書を引っ張りだしてみた。例えば日本史。最近歴史に興味があるのだ。ところが。。これが読めない!まず字が小さい。それから、年号と、誰それがどうした、みたいなことしか書いてなくて、面白くない。読んでてもまったく頭に入ってこない。え?教科書ってこんなんだったっけ?

おれは少し驚いた。なぜなら、俺はどちらかというと勉強は好きなほうだったからだ。受験勉強などいい思い出くらいに思ってる。でも、この教科書たちといったら。。好きだった地図帳をひっくり返してみるも、こちらも読めたものではない。ただの情報の羅列だ、。

おれよくこんな本で勉強してたな。。と懐かしいよりも、不可思議な気持ちになってしまった。こんなの毎日暗記させられたら、地獄だぜ、。

もう歴史を学ぶなら、司馬遼とかNHKスペシャル、みたいな物語性のあるものでしか、無理だ。年表をひたすら覚えるとか、意味なさ過ぎて泣ける。

どうして、こんなものに6年間もつきあえたのだろう。。自分があまりに変わってしまった気がして戸惑った。

すると、たしか高橋源一郎だったと思うが、ある本の中で、こんなことが書いてあった。受験生の時は、受験意外に選択肢がないと思っていたから、あんなに勉強できたんだ、と。

あ、そうかもしれないと思う。そんな覚悟や意志でそうしていたわけじゃないけど、進学する以外の選択肢は当時の僕の頭の中にはまったくなかった。スポーツや音楽など、他に得意なことも興味があることもなかった。だから、受験して進学するのが100%の未来であり、100%の未来に向かうのにどうしても通過しなければならない改札は通過しなければならない、というだけだったのだろう。

この教科書を投げ捨てたら別の未来が開ける、などと思いつきさえもしなかった。だから逆にこう思った。アノ当時、別の未来の可能性を知りながら、思い描きながら、教室に座っていたらどれほど苦痛だっただろうか、と。

だが、わからない。もしかすると、10代の僕にとっては、あの退屈な教科書でさえも、未知の世界を開いてくれる、魅力的なコンテンツだったのかもしれない。今となってはわからないが、でも、きっと、それ意外に選択肢がないと、骨の髄あたりまで考えていたからだろうと思う。考えるよりも以前に当たり前なこととして。

逆に言えば、それ以外に選択肢がないと思っていれば、がんばれるものなのだろう。それは我慢でも努力でもなく、ただ、そうなっているからそうなだけであり、だってこれ意外に何がある?ということなのだから。それをやらなければ、未来が暗くなる。やれば明るくなる。単純明快。だったらがんばれるだろう。それは骨の髄レベルで。

そういうことだったのかもしれない。。いまさらのように振り返る。しかし、学校でも勉強して、さらにその帰りに図書館に来て一心不乱に勉強している彼らをみると、「えらいなあ」の一言しか出てこない。

そして、撤回せねばならないと思った。おれは別に勉強が好きなわけじゃないんだな、と。勉強は好きなんだと思ってたけど、ひたすら何かを記憶したり、ひたすら問題の解き方を覚えたり、そういうのもうできない。というのも、仕事に役立つと思って借りてきた英語のガイドブックが、読むだけで苦痛な自分がいま、いるからです。頭がチカチカする。高校向けの文法書とか1ページも読めなかったよ。