厄祓いで餅を投げる

地元で厄払いの行事に誘われたので行ってきた。これがなかなかよかった。神主さんのお祓いをうけて、やぐらに登る。餅を投げるのだ。下をみたらたくさんの地元の人が集まっていた。こどもたちが奇声を発している。おお、なんだか気分いいな。みんな、僕らが餅やお菓子を投げるを待っているのだ。

 

餅投げは一瞬で終わった。たくさんお菓子をばらまいた。これは楽しい。これは厄が落ちるわ、とおもった。しかし、いまどき餅だってお菓子だってコンビニで買える。わざわざ苦労して拾いに来てくれた地元の人たちにありがとうと思った。こういう風習はやっぱりいいね。中学の同級生たちとビールを飲む。なかにはもう孫がいる奴までいる。おそろしい。でもみんな面影ありまくりで、僕には中学生にしか見えなかった。でも、家や職場ではそれぞれの顔に戻るのだろう。

 

帰国して真っ先にやりたかったのが本を読むことなのだが、思えばあんまり読めていなかった。なんだか慌ただしかったのだ。いろいろ出かけて慌ただしかったのだが、気持ちも慌ただしく、本を読む気分じゃなかった。でも、急に読書欲が湧いてきて、図書館へ通い出した。図書館はいい。本がいっぱいある。取り寄せれば大抵の本が読める。すばらしいシステムだ。海外にいて、本が自由に読めないことがつらかった面もある。海外の図書館で日本の本が読み放題なら、ぼくは寂しくなんかならないだろう。それは永遠の課題だ。つまり、叶えられそうもない課題だ。電子書籍があるじゃないかというけど、仕事でパソコンと睨み合ったあと、またデバイスを睨む気にはなれない。紙の本をゆっくり読みたいのだ。日本にはいい本がたくさんある。

 

さて、最近よく、いつあっちにカエルの?質問される。あっちとはタイのことだ。それは「もうすぐ」としか言えない。まあいろいろあるのだ。でも、まあ遠からぬ「もうすぐ」である。

 

日本の季節はびっくりするぐらい速くめぐる。今日、図書館からの帰り、肌寒いを通り越して寒かった。長袖を着ていたのだが。思えば4月に東京に帰ってきたとき、寒波が来ていて超寒く、すっかり体調を崩した。熱まで出ていた。それからみるみる熱くなり、熱すぎて泣けるくらいの夏が来た。と思ったらもう寒かった。速い、速すぎる。インドネシアとタイから来た身には、サイクルが速すぎるのだ。

もちろんその早いサイクルが、日本人の細やかなな感じ性を育てたのは間違いないと思える。美徳だ。でもその反面で、とりあえずゆっくりしようという心は芽生えにくいのかもしれない。バリ島でいつも思っていた。ここは、昨日と今日、今日と明日が同じ日なんだと思える場所なんだって。今日と同じ日が明日からも続くんだって、無意識は判断している。だから、今日しかできないことなんてない。明日やればいい。天気がいい?明日もそうだよ。海水浴に最高の気温だ?明日も同じだよ。サーフィンだってそうだ。今日波がいい?きっと明日もあるよ。明日なくても来週にはアルヨ。そんな風に思える土地だった。それは良し悪しだ。でも、どこか落ち着いて日々を過ごせる場所だった。

どっちがいいか?それはやなむ。おれは日本で育ったからやはり日本が馴染むだろう。でも、あの焦らない日々も懐かしい。タイもまあそんな感じだ。どうせずっと暑い。諦めて楽しめばいい。そんな風に思えてくる。

 

ぼくはこの半年、たくさんの友人、旧友たちと会ってきた。で、とまどってる部分がある。それは、みんながどういう内面を生きてるのかなんだかわからないということだ。どういう悩みでどのくらい悩んでいるのか、どのくらいの幸福度で日々を生きているのか、みたいなことだ。なんか、わからない。わからなくても困りはしないんだけど、いつのまにかこうなった?と思う。たぶん逆も真なりで、相手も俺のことがいまいちつかめない気持ちでいるんじゃないかな。それが大人になるということなのかもしれない。お前と俺はおんなじだ!と無邪気に思えた10代の日々はやはり、過ぎ去ったのだ。どれほど面影を宿していようとも。