サーフィンの先生

先日、中学の同級生たちとプチ同窓会をしたのは書いた。そこで、面白かったのだ、「いつの間にか、サーフィンの先生になったのか!」と数名のやつから問われたことだ。それはたぶんバリ島にいるとき、Facebookにサーフィンを教えたよという写真が連続で投稿されたからだろう。バリでいつも一緒にいた友人が投稿してくれたのだ。それですっかりサーフィンの先生である、という話が回っていたのだ。

だから、飲み会の席で、サーフィンの立ち方を、ワンツースリーフォーをやらされたりした。そこまで酔っ払ってなかったので、ひたすら恥かしいだけだった。

しかし、サーフィンとも不思議な縁で、サーフィンが僕と関連のある語句として、人の口から語られることに、いまだに意外な気持ちになってしまう。それほど、自分とサーフィンは遠かったのだ。

 

そして、思えば、サーフィンを教えているときは、本当に楽しかったな、ということだ。サーフィンの世界でいえば、僕などは下の下の下に属するだろう。つまり技能としては。それでいて、プロのサーファーでも、なかなか飯が食えない世界であり、サーフィンが少しでも仕事のかけらにでもなるなんて考えもできないのだが、サーフィンを教えることが仕事のかけらにでもなれば、それこそ趣味は実益を兼ねるの王道をいくことになるだろうな、とはたまに夢想するのだ。

世の中には、いろいろ「教える」ことがあるが、例えば、受験勉強を教える、みたいなのも教えるに入るし、パソコンを教えるなんかも教えるに入るし、いろいろあるけど、サーフィンを教える、というのはどこか優雅な響きがある。

というのも、サーフィンにはその先にある実益などないからだ。サーフィンのスキルを磨いて、なになにができるようになりたい、というような気持ちはまれだろう。勉強や語学などは、役に立つ。サーフィンは、別に役に立たない。ただ、サーフしているその時間が楽しいだけである。もちろん、かなり激しい運動であるし、海に入るだけでも健康にはいい。とはいえ、健康にためにわざわざサーフィンを選ぶことはない。水泳やジョギングのほうが効率がいいのだ。

と、ここまで書いて、なんか違うな、と思ったので中断する。なんか書きたいことと違ってきた。

あ、そうだ、一個だけわかるのは、あの頃、バリ島でサーフィンを教えるのが楽しかったのは、教え子のほとんどは、サーフィンをやったことがない人だったことだ。

サーフィンやったことがない、できる気がしない、自分がボードに立てててるイメージができない、そういう人が多かった。そういう人が、ボードに立てて波に乗ってすべっていくときの、あの神妙かつ(きっと)歓びに満ちた後ろ姿を見るのが好きだったのだ。そして、岸のほうまでいて、水にボチャンと落ちたあと、振り返って、僕と目があったときの、照れた笑顔が好きだったのだ。

なんて言いながら、まだ書きたいこととずれている、。

ひとつ思っているのは、少し前、テレビか新聞で、シリアかどこかの紛争地帯にある難民キャンプで、子どもがインタビューに応えているのを見た。その子いわく、難民キャンプでボランティアによる無料スクールが開かれているが、初等教育までしかなく、それ以上の教育は私たちには受けられない。それ以上の教育を受けずに大人になったあとの、将来が心配だ。いい仕事にはつけないのではないかと。という感じの悩みを話していた。

僕はちょっと感覚がわからないでいた。その子が言っている、もう少し受けたい教育とは、日本でいる中学校教育のことだろうか。まあ高校くらいまで含めるとしても。そうした教育を受けられない環境にいるとしたら、それはやはりかわいそうだなと思う。たぶん独学しようにもまともな教科書も手に入らないはずだ。でも、でもな、と思う。中学高校の教育がそんなに重要なのだろうか?と。というのは、やはり、教科書は何も教えてくれない、じゃないけど、中高の教育が本当に生きていくうえでの糧になったと思うことがないからだ。普段の生活のなかでは。でもそれは、すでに教育を受けてしまった者が言う戯言なのかもしれない。本当に教育を受けたくても受けられなかった者は、教科書なんかに載ってない、などとのたまえる環境をうらやんでいるのかもしれない。

そうえいば、昔見たテレビかなにかで、日本のどこかの小さな島かどこかで、病気とか貧困とかで村人がどんどん亡くなっていくのを見てきた村長かなにかが、「わしに学問があれば」とインタビューに応えてうめくようにつぶやくのを見た記憶があるような気がした。

学問ってなんだ?とそのときは思った。そんな、あんたが勉強したくらいのことで、貧困とかなくなる??みたいな素朴なギモンがわいた。だって日本には、受けたいだけの教育を受けた人で溢れている。でも、なんとなく、みんなで不幸せそうにしている。

でも、それでも、シリアの難民キャンプの11歳の少年から見れば、ああいう国に生まれたかった、ということになるのかもしれない。生まれるだけで、基本は中学まで誰でもいける。勉強好きなら奨学金を得ながら大学まで行くのだってそれほど夢物語ではないのだ。

ただそう考えてはみるものの、難民キャンプの少年が、自分の将来のためにどうしても受けておきたい教育がどんなものなかのか、ちゃんとイメージすることができなかった。それだけ僕と彼との置かれた環境にギャップがあるということだろうか。

 

それは、日本のこどもに受験勉強を教えるのとはだいぶちがうのだろうか。いや、それほど違わないのかもしれない。受験勉強がお受験のためだとしても、それはいい学校に入って、将来いい職業につくためだろうからだ。いい職業とはやはり、最低でも生計が立つ職業であり、もちろん、「貧しい」と思わずに行きていけるだけの収入が得られる職業だ。やはりおおまかに言えばそういうものを目指して受験勉強するのだろう。それはシリアの難民キャンプの子どもとそれほどかわらないのかもしれない。難民キャンプの子どもたちだって、将来の生活を心配しているのだろうから。何も学問的な生きがいを見つけたい、とか、宇宙の真理を突き止めたい、ノーベル賞をとれる科学者になりたい、というところに切実さがあるわけじゃないはずだ。ただ、このような環境、難民キャンプのような環境から脱して、まともに、裕福とはいえずとも、貧しくない暮らしを、奴隷のような仕事ではなく、主体性をもって取り組める仕事を得たい、そういうところに目標点はある気はする。

そして、その地点に到達するには、やはり教育が必要なのだと、子どもながらに考えたのだろう。か。

そういうことが、本当に教育で達成されるなら、もちろん教育だけではないとしても、教育が大きな部分を占めるというなら、そして、それが、本人の能力や努力とはまた別のところで、教育環境というもので人生が大きく変わっていまうのだとしたら、本人が目標としているライフに大きく近づけるのだとしたら、もしそうだとしたら、教育の重要性は計り知れない。

で、その場合の教育とは、彼らが良いより生活をすることの基盤となりうる教育とは一体いかなる内容のものになるのか、やっぱりでもきちんとイメージできないでいるのだ。それは日本の中学教育のカリキュラムで、本当にいいのだろうか、もしくは、まったく別の、僕が受けたことがない、「教育」というものがあるのだろうか。